世界樹の迷宮・その45前編(狂える角鹿について)

 アルケミスト♂ ウィバの日記


 天井を覆い隠すほどに密集した常緑樹の海をオレ達は泳ぐように掻き分けて進む。
 眼前に現れた傾いだ樺の木をアリスベルガが無言で指し示すと、口元を固く結んだジャドが足音を殺しながら隊列を抜け出し、ためつすがめず幹を検分する。樹皮の剥がれた創傷から『敵対者』の行き先を探っているのだ。


 「こっちだな。」
 「糸が限界です。これ以上踏み込むのは危険なのでは?」


 元来た方向にちらりと視線を配しながらルーノが注意を喚起する。踏み拓いたはずの下生えは既に周囲の群生と同化し、目を凝らさなければ足跡を探すことさえ難しい。
 そして出発前には熟れた林檎ほどもあった白い糸玉は、いまや繭を纏った蚕の大きさまで矮小化していた。
 『アリアドネの糸』はエトリアとパーティを物理的に繋げる唯一の命綱ではあるのだが、そこから伸びるたった一本のか細い銀糸に仲間全員の命がかかっているのだと思うと、ただでさえ繊細な絹糸が一層儚く思え、腹の底が急激に冷えていく思いがする。
 おまけに地図に記された今回の旅程を示す直線は既に縁取りまで達し、手持ちの磁石と言えば磁針が踊り狂って用を為さない。
 退路を確保する。現在位置を把握する。それは冒険者にとって生存術の初歩の初歩だ。しかし1+1から2を反射的に導き出すことは容易でも、ではなぜそうなるのか、幼児に説明を請われると途端にこの平易な数式が怪異な命題に成り果てるのと同様に、理解と実践の間には時として現実と言う名の石壁が屹立する。
 長生きする冒険者とは障害を極力避けて通る冒険者なのだろう。対してオレ達は身の丈も弁えずに石壁に立ち向かおうとする不遜な連中だ。理性を軽んじる振る舞いを今後も続ければ、いつか手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。


 「人の手の届かない場所まで逃げてむしろ当然なんだ。もう少しだけ進もう。」


 だがオレは探索の継続を要求する。
 オレ達は間違いなく目標に接近している。追跡者を撒くために『敵対者』が仕掛けた幾重もの擬装はオレ達に悉く看破され、いまや『敵対者』は距離を稼ぐことだけに執心している。足跡からも確かな焦りが見える。
 手を伸ばせば届く場所にそれはいるのだ。もう少しだけリスクを冒す価値はあるとオレは判断した。


 「『靴を拾わねば輝石は得られない』、か。」
 「……じゃあ、それで。」


 アリスベルガが追随するように独語する。リーダーが気のない声を上げ、それで多勢が決した。


 「ったく、割にあわねぇ仕事だぜ。」
 「真っ先に挙手した奴が言う台詞か。」


 アリスベルガの冷淡なまでの指摘にジャドは反駁しようとして口篭もり、そして舌打ちする。ルーノが苦笑しながら両者を宥めると、2人は気まずい視線を交錯させてから互いに顔を逸らした。
 いつ果てるとも知れない緑樹の回廊は仲間の精神にも健やかならぬ影響を与える。そう、迷宮に潜む悪意は何も徘徊する魔物ばかりではない。この樹海そのものが人間の侵犯を阻む生きた要害なのだ。




 「『狂える角鹿』の調査、ですか?」


 年若い情報室長は頓狂な鸚鵡返しに気を悪くすることもなく、笑みを崩さず頷いた。


 「そうだ。それを君達ティークラブ・アンド・エトリアン・ソサイエティに依頼したい。」
 「それで?」


 程よく焦げ目のついた鱈の燻製を頬張るジャドは、情報室長の披露したさりげない誠意に一片の感銘を受けた様子も見せず、素っ気なく先を促す。


 会談の場所が金鹿の酒場に誂えられたのは情報室長の提案によるものだった。情報室長はその理由について、予算の出所が違うためだと説明したが、本音は面倒な依頼を呑ませるための餌を用意したということだろう。それを裏付けるように本日の酒代は情報室長持ちである。
 彼はいつもの肩の凝りそうな装飾過多な衣装ではなく、それよりは大人しめな、しかし一目で上等とわかるゆったりとした絹の長衣を身に纏っている。とは言え雑多な冒険者の集まる薄暗い酒場の中では、野良猫の群れに混じった人猫のように、存在自体が浮いていることは否めなかった。


 「駆け出しの冒険者は皆『敵対者』相手に死線を彷徨うそうだが……」
 「それは通過儀礼のようなものだ。……レイズ。」


 手札に視線を貼り付けたままアリスベルガがチップをテーブルに放った。


 「一度は痛い目に遭った方がいい。それで資質が分かる。」
 「あなたもなかなか『らしい』物言いが板についてきましたね。……コール。」


 手札と対戦相手の表情に視線を忙しなく行き来させながら、リーダーが呟く。


 「……そういうワケでもないが。」


 初めて『敵対者』と出会った時の苦い経験でも思い出したのだろうか、アリスベルガの眉根が歪む。


 「『忠告』はしてるんだぜ。特にあの辺は念入りにな。」


 ジャドの言う『忠告』とは木の幹や路傍の岩に記された符号のことだ。その多くは野伏同士が相互の連絡に用いる特殊な暗号なのだが、『敵対者』のうろつく界隈には特に危険を知らせる『忠告』が数多く散見される。


 「野伏がいればそこで身構える。いないなら尚更に。無策で飛び込むのはただのバカだな。」


 他人の命の保証など誰にもできないのだ。冒険者は行動を律されることはないが、常に責任を自分で負わなければならない。それは冒険者に課せられた数少ないルールの一つでもある。


 「大体、自分から飛び込んでおいてタラタラ文句垂れるようなヤツぁ……」
 「しかも自らの力量を省みることのない若輩者に限って……」
 「……年寄り染みた繰言はそこまでだ。脱線し過ぎて依頼主が困っている。」


 近頃の若い冒険者は…… の枕詞から始まる定型的な評論は、ある意味では酒精以上に(自称)古強者達を饒舌にさせるが、放っておくと無限に話題が飛び火して収拾がつかなくなる。ましてや酒の席ともなればそれを聞きつけた血気に逸る若い冒険者が乱入してこないとも限らないワケで、早めに切り上げるのが節度ある振る舞いと言える。


 「まだお話の糸口しか伺ってませんわ。続きを伺いましょう。」


 ルーノに促され、情報室長は『狂える角鹿』の調査依頼の仔細について述べ始める。それは次のような内容だった。
 先日、オレ達が第1層の深層を住処とする『雪走り』の討伐を果たしたことにより、しばし断絶していた第2層に続く樹海磁軸がその機能を回復させた。世界樹の迷宮を巡る探索の主な舞台は第1層から第2層へと推移し、腕利きの冒険者はこぞって第2層への移行を開始したのだが、同時にこの報は大陸の各都市へと伝わり、これを好機と見た冒険者流入が今まで以上に活性化した。
 しかし、エトリアに押し寄せた冒険者の多くは大望に逸るものの地図の描き方も知らない素人ばかり。当然ながら彼らが真っ先に迷宮で目にしたのは宝箱から溢れんばかりの金貨の輝きなどではなく、迷宮を徘徊する獰猛な魔物と、その爪と牙に倒れる仲間の姿だったのだ。
 結果的に第1層における冒険者の死傷者数は爆発的に増大した。今までは古参の冒険者がそうした新参の冒険者を影から日向からフォローしていたのだが、前述の通り彼らが第2層へと探索の場を移したこともあって、第1層における冒険者の比率は大きく新人側に傾き、今や第1層は狼に散らされた羊の群れの如き混乱状態にあった。


 「キタザキ先生も大忙しだそうでね。猫の手も借りたいぐらいだと仰っていた。」


 新人冒険者が蹉跌を踏む場所はほぼパターン化されている。『ひっかきモグラ』に『毒アゲハ』…… そして『狂える角鹿』だ。


 「なぜそこで『狂える角鹿』が名指しされたのですか?」
 「知っての通り、情報室は樹海に関する諸々の情報をギルドに発信している。それと同時に我々はギルドと執政院を取り繋ぐ窓口も兼務しているのだが、まぁ、そこで色々と要望や苦情が寄せられてね。」


 それは何となく想像がつく。情報室の提供する魔物の概要は所々にミスが散見され、正直信頼の置けないところがある。この状況が続くと遠くない未来、獰猛な魔物に「攻撃力はさほどでもない」などと解説を付するような失態を犯すかもしれない。


 「そしてその最たるものが『狂える角鹿』に関する件なのだ。つまり、『狂える角鹿』と『フィンドホーン』はどう見分けるのか、という。」
 「……それは難問ですね。」


 樹海を住処とする角鹿は主に『敵対者』である『狂える角鹿』と、その眷属である『フィンドホーン』の2種類に大別される。
 この両者は体長から毛色まで双生児のような相似形にあり、一見して判別がつき難いのだが、『狂える角鹿』は『フィンドホーン』に比べてより性格が攻撃的で身体能力に優れるため、その危険性は猫と虎ほども異なる。そして若手の冒険者が『狂える角鹿』に大きな手傷を負わされるのは、この凶悪な『狂える角鹿』を激昂した『フィンドホーン』と誤認して戦闘を挑んだ結果であることが少なくない。


 「正直に言えば私達はフィールドワークに通じていない。だから君達冒険者が何を基準に『狂える角鹿』と『フィンドホーン』を見分けているのか、実はよくわからない。」
 「そんなもん、実地で見れば一目瞭然だぜ。あ、いや、視界に捉えなくても足音だけでわかるな。」
 「……もう少し初心者向けの判別法はないだろうか。或いは『狂える角鹿』を避ける手段でもいいのだが。」


 オレ達は顔を見合わせて沈黙する。冒険者は魔物の判別にしてもそうだが、五感を以って危険を察知する。それを教えてくれというのは、「赤と青の見分け方を教えてくれ」と請われるようなものだ。見たままの通りだとしか言いようがない。


 「とまれ、そうした各方面からの要請により、情報室は『狂える角鹿』について重点的な生態の調査を必要とする結論に至った。君達に依頼したいのはそうした案件だ。」


 オレ達は顔を見合わせる。誰もが表情に「この依頼は面倒だぞ」という警戒の色を顕にしていた。リーダーに至っては「さて、この酒瓶を満たす魔法はないものか」と思案しているように見えた。




 「いいじゃん。やろうぜ、それ。」


 しばし沈思黙考という名の抗拒を示し続ける中、空気を読まずに諾意の声を上げたのは、頑是ない冒険者をバカ呼ばわりしたジャドだった。おかしい、普段のジャドならば「そんなみみっちいことやってられっか!」と開口一番に切り捨てそうなものなのだが。
 皆も同様の見解を得たのか、一様に疑惑の視線がジャドに集まる。一人、ジャドの本性を知らない情報室長だけが期待に満ちた眼差しをジャドに向けていた。


 「いいか、みんな。これは歴とした人助けだぜ。オレ達がやらないでどうするってんだ!」
 「そうして貰えると助かる。他の冒険者にも掛け合ってはみたのだが、なかなか色よい返事が貰えなくてな……」


 それはそうだろう。熟練の冒険者からしたら、今更第1層へ舞い戻るのは面倒なだけの話だ。正直な話、報酬もさほど期待できないだろうし、どう見てもこれは慈善事業の類だ。それだけにジャドの態度には何か裏があるとしか思えないのだが……


 「どうせ飛竜に怖気づいたか、そんなところだろう。」


 苦虫を噛み潰したような顔でアリスベルガが毒づくと、途端にジャドの目が泳ぎ始める。アリスベルガの推測はどうやら的を射ていたらしい。


 「進捗が滞っているのかね?」


 情報室長が苦笑すると、カードをシャッフルしながらリーダーが答える。


 「ご自分の目で確かめて貰えばどれだけの難題かわかりますよ。全く執政院は無茶を仰る。」


 未だに第2層に踏み入って日の浅いオレ達は、苛酷な環境を生き抜く攻撃的な狩猟者達を前に苦闘を強いられている最中だった。『雪走り』を討伐した自信と矜持などそれこそ瞬時に蒸発してしまうほどに、密林に潜む魔物の生存欲は貪欲で悪辣だった。
 そしてその生態系の頂点に君臨するのが、飛竜の間と呼ばれる灰炭の玉座に身を預ける一匹の巨大な赤銅色の翼竜だ。この密林の王者は前肢と一体化した巨大な皮翼を狭苦しく折り畳み、ねぐらと定めた雨林の一角で長きに渡って惰眠と倦怠とを謳歌している。


 さて、執政院はこの獰猛で残忍な飛竜の目を掻い潜り、彼の巣に眠る卵の奪取をオレ達に命じてきた。
 一般的に食物連鎖ヒエラルキーにおいては低次の生態ほど小卵多産の傾向があり、それを捕食する側は反比例的に大卵少産の色合いを強くする。……つまり食物連鎖の頂点に位置するこの獰猛な暴君はその図体に反して極めて子煩悩な性格を併せ持っているのだ。
 それだけを考えてみてもこの任務が極めて高い危険性を帯びた冒険であることは容易に想像がつく。ましてや現実的には何をか況や、だ。


 「それも伝説に冠する竜のなせる業。かの者は我々の学術的な欲求を甚く擽るのだよ。」
 「もっと手頃な研究材料もあるでしょうに。」


 溜息と共にリーダーが手札を広げる。2と6のツーペアだった。


 「そうだな、例えば『全てを刈る影』とかな。」


 嬉々とした表情でアリスベルガがチップを集める。こちらはキングのスリーカードだ。
 その様子を見ていたジャドが下卑た笑い声を上げる。


 「お前、カマキリの卵って見たことないだろ?」
 「……それがどうした?」
 「カマキリってな、木の上に大量に卵を産み付けるんだよ。」


 カマキリはその卵鞘に200〜300の卵を抱えていると言うが…… そこから一斉に孵化する『全てを刈る影』の姿なぞ想像するだけで背筋が震える。幼生と言えどもその一匹一匹が森林ネズミほどの大きさもあるのだ。
 しかもカマキリにとっては眼前で動くもの全てが餌だ。この習性は幼生と言えども変わりはない。俗に交尾後のカマキリの雌がつがいの牡を共食いするという逸話があるが、実情としてはカマキリは性差の如何に関わらず相手を餌と捉えているに過ぎない。
 ゆえに野生のカマキリは鉢合わせた時には互いに動きを止める。下手に動いた方から餌と認識されるからだ。


 「孵化に立ち合わせたら悪夢でしょうねぇ。竜の『吐息』なら一瞬で済みますが、五臓六腑を食い尽くされるには少々手間がかかりそうです。」


 空寒い奇談を平然と口にするリーダーの態度にアリスベルガの形のよい眉が歪み、表情に嫌悪の色彩が宿る。ひょっとしたらこれはカードの意趣返しのつもりなのかも知れない。
 ともあれ飛竜にしても『全てを刈る影』にしてもその生存本能を甘く見てはならないのは一様なのだ。樹海に潜む生命は常に強烈に種の保存を指向する。 ……一体何のために?


 「お前バッカじゃねぇの。そこらのハナタレ坊主だって『全てを刈る影』の卵なら余裕だ、なんて命知らずなことは言わねぇよ。バーカバーカ。」


 ジャドの挑発的な嘲弄を受けて、青褪めていたアリスベルガの顔色が今度は怒気と共に紅潮する。全く忙しいことだ。


 「あーあ、やっぱ貴族の女はダメだ。世間知らずでよ。」
 「なんだと貴様っ!」


 幼い頃から山野を走り回ってたオレ達に比べると、箱入りの彼女が世事に疎いのも仕方のないことではある。
 とは言え正規の教育を受けてきた(そしてそれを誇っている部分も多分にある)彼女としては、浮草にも等しい冒険者風情に常識を指摘されるなど屈辱の極みなのだろう。……まぁ、ジャドが過剰に煽っているせいもあるだろうが。




 その後、アリスベルガとジャドの両名は全く耳を覆いたくなるような幼稚で低俗な罵倒とその報復劇を繰り返した。やがてルーノが静かな怒気を篭めた叱咤の槌を振り下ろし、両者は喧嘩に負けた野良犬のような表情で渋々停戦条約を締結するに至った。
 しかし、それが恒久的な平和を保証するものではないことは両者の表情からも即座に知れた。未だ2人は正当な報復を完遂していないと思っているようだった。
 やがて唖然とした表情でオレ達のやり取りを見守っていた情報室長が苦い口調でオレに尋ねる。


 「君達はいつもこんな調子なのか?」
 「おかげで毎日刺激に事欠きませんよ。」


 ともあれこの騒動の後、アリスベルガは態度を一変させて情報室長の提示した依頼に飛びついた。
 世間知らずと罵られたことがよほど腹に据えかねたのだろう。彼女の矜持を守る鎧に開いた風穴は、新たな発見と未知なる知識を埋め合わせに必要としたようだ。まぁ、些か動機は不純ではあるが、向学心を持つのは悪いことではない……


 その後、オレ達は契約の詳細な内容(その大部分は神学論争にも匹敵する報酬額を巡る討論だ)について情報室長と話し合い、最終的に依頼を受諾する方向で話が纏まった。
 こうしてオレ達は再び緑生い茂る翠緑の樹海へ舞い戻ることになったのである。