世界樹の迷宮・その10(B8F)

アルケミスト♂ ウィバの日記

 黒いローブを纏った呪い師の少女は手械を嵌められた手で器用に小瓶の蓋を開けると、その中身をオレ達に振り掛ける。

 「これは……! 体に力が戻ってくる……!?」
 「さっきまで傷だらけだったのがウソみたい……!」
 「みんな、ルーノの意識が戻りました!」

 体の隅々まで重く根を張っていた疲労感が、降り注いだ液体に洗い流されるようにして消えていく。
 それは仲間達も同様で、先ほどまでは満身創痍だったアリスベルガとジャドの二人も、今ではすっかり傷が癒えたようだった。
 魔物の攻撃を受けて昏倒していたルーノでさえ、その頬には瑞々しい生気が戻り、自らの足で立つまでに回復している。
 この小さな奇跡に互いに顔を見合わせて歓喜するオレ達に、しかし少女は事もなく告げた。

 「……迷宮の深部に沸く治癒の清水よ。あなた達も探してみるといいわ。」





 ……迷宮の探索中に「敵対者」の乱入を受け、著しい痛撃を受けたオレ達が唯一縋れるものは、あの時呪い師の少女が言っていた「治癒の清水」の存在だった。
 「敵対者」の苛烈な襲撃に逢い、オレ達は危機的状況に陥っていた。アリスベルガは意識を失い、ジャドは半死半生の体。戦闘の得意ではないリーダーとルーノが仮の前衛を勤め、どうにか陣形を保っていると言う有様だ。一刻も早く治癒の清水を見つけなければ最悪の事態にも接しかねない。

 「誰か一人でも生き残れば、私達の勝ちです。」

 リーダーの声は決して大きくはなかったが、その言葉には生存への気迫が満ち満ちていた。
 地図には先人が書き残してくれたものと思われる治癒の清水を示すマーク。直線距離で20分も歩けば辿り着けるだろうが、もし辿り着くまでに魔物に出くわしたり、あるいは迂回が必要だったとしたらアウトだ。
 さて、一体どうする……?

 「突っ走りますよ!」

 リーダーの言葉に迷いはなかった。そうだ、いまさら引くことなんてできないんだ。オレ達にはそれしかない。

 「行くぞ!」

 息も絶え絶えにジャドが走る。アリスベルガに肩を貸しながらルーノが続く。そしてオレも仲間を追う。




 幸運の女神が味方してくれたのか魔物に遭遇することなく、オレ達は治癒の清水を湛えた泉へ辿りつくことが出来た。
 天井の裂け目から迷宮に根付く樹葉を伝って断続的に滴り落ちる雫が、恐らく何百、何千年という時間をかけたのだろう、台座となる岩を穿ち、小さな泉となってゆらゆらと光を反射している。

 オレ達は泉の前に倒れこむように座り込むと、次々に水面に手を差し伸ばし、清水を掬って口に運んだ。
 効果はすぐさま現れた。あの時少女が見せた奇跡と同様、枯れ果てていた四肢は今や滾るような精気に満ち、鈍く曇っていた頭脳は冬の晴天のような明瞭さを取り戻し、灰色に染まった視界は天然色の色彩に回帰した。

 オレ達は安堵と歓喜の表情を共に浮かべ、生き永らえた喜びを分かち合う。
 しかしそんな至福の時間をルーノの悲痛な叫びが遮った。

 「アリスが目を覚まさないの!」

 地面に体を横たえたアリスベルガは目を閉じたまま、ピクリとも動かない。
 ルーノは必死に彼女に清水を振り掛けるが、あの呪い師の少女がしてみせたような効果は現れない。

 一体、なぜ……!?

 ふと、オレはある思いに駆られる。
 呪い師の持っていた小瓶の中身は本当に治癒の清水だったのだろうか……?





 世界樹の迷宮の奥には回復ポイントとして治癒の清水の湛えられた回復の泉があります。この回復の泉は宿屋と違って無料で、しかも何度も利用することが出来るので経験値や素材を稼ぐ為の絶好のポイントとなります。基本的に宿代で赤字さえ出かねないこのゲーム、新たな階層に下りた際に回復の泉まで辿り着くことは多くのプレイヤーにとって一つの大きな目標でもあります。言ってみればマリオワールドで言うところの中継点を切るような感じですね。
 さて、回復の泉を使用するにあたって注意しなくてはならないことは、HPが0になったいわゆる死んだキャラの回復までは出来ないと言うことです。そこはアイテムなりメディックのスキル、リザレクションを使って死亡状態から復帰させなくてはなりません。
 ところが、ある階層で現れるNPCの呪い師の少女。彼女がパーティに遠慮なく分けてくれる治癒の清水は(確か私の記憶が正しければ)死亡状態からキャラクターを復帰させる効能を持っているのです。これは本当に同じ水なのか!?
 敵の攻撃でキャラクターがやられた時に「そうだ、回復の泉に行けば復活するぞ!」と勇んで行ってみたらキャラはポックリ逝ったまま、という経験をした私はどうも何かあの少女に騙されたような感がありまして、まったく迷宮は地獄だぜフゥハハハァーと一人涙に暮れた夜を思い出します。つか糸忘れんな。
 じゃあ、一体彼女の持っていた液体はなんぞや? という方向に話が向かってしまうとそれはそれでアレな話に向かってしまいそうなのでこの辺で。え、いや、怖い方向に行きそうだってことですよ。呪い師だし。
 ともあれ個人的には彼女の液体と治癒の清水は別物説を強く唱えたいところであります。変な意味ではなく。

 ゲームに話を戻すと、無料の回復ポイントを用意すること、かつその存在があらかじめマップ上に明示されていることは、この手の3DダンジョンRPGにおいては極めて特殊な事例だと思われます。
 3DダンジョンRPGがとかく難しいと思われる理由の一つに「HPMPを回復できる場所に辿り着くのが難しい」という点がありまして、2DRPGでは何の困難もなく辿り着ける宿屋も、3DRPGでは町=あるユニークな座標であって、その座標に到達できないことには回復もままならないという制限が、ひとつゲームの敷居を高くしている側面があります。
 3DRPGでは軍事で言うところの補給路、補給線という概念が特に顕著なゲームで、長い進軍を要求とされる為に、補給をキチンと受けられる体勢、補給路を常に確保する状態を作り上げないと冒険中の消耗を回復できず、のたれ死にします。
 この補給のタイミングを計るのがこの手のゲームの面白さでもあるのですが、3DダンジョンRPG初心者にとっては、まずどこへ行けば回復できるのか分からない(=補給路の断絶)という状況が迷宮に一歩足を踏み入れた瞬間から始まってしまいまして、迷う→戻れない→頓死→もうダメというコンボが決まり、3DダンジョンRPGとの不幸な決別をプレイヤーに決意させてしまうのです。
 その状況を回避すべく世界樹の迷宮では手書きのマップを用意しているのですが、更に一歩突っ込んで回復ポイントまで用意してくれています。「ここまで辿り着けば回復できるよー」というポイントを示すことで初心者にとって何よりの安心感を与える無償の回復手段を提供しているのですね。この気遣いにはやはり3DダンジョンRPG再生の旗印を掲げた開発者の気配りを感じます。
 考えてみればWizなんかは回復アイテム一つとっても馬鹿高くて、その割に効果はスズメの涙と、まぁ、TRPG的には適切なバランス設定であっても、現在のCRPGに慣れた人間からすると余りにもコストとリターンのバランスが噛み合わないように感じるゲームだったりします。それに比べると世界樹はローコストでハイリターンを返す、近代のRPGに顕著な、悪く言えば「ヌルさ」を兼ね備えたゲームではあるのですが、それで得られたリソースをガガガッと削る敵が同時に存在しているためにバランスが成り立っているようにも思います。
 ついでに言えば、アリアドネの糸もそうした初心者救済の側面が多分にあって、マップを見なくても回復できる場所まで一瞬で戻れるのは、コアゲーマーからすればヌルいように思えるかもしれませんが、初めて3DダンジョンRPGを経験する人にはやはり必要なものだと思うのです。

 3DダンジョンRPGのユニークな面白さは「安全に裏打ちされた危険さ」によるところが大きいと思うのですが、とかく初心者にとっては安全な部分より危険な部分の方が色濃く見えるものです。熟練したプレイヤーは自らの経験と予測に基づいて安全と危険の分岐点を割り出すことが出来ますが、初心者にとってはその全てが危険にしか見えません。だからと言ってこれから自己の体験を以って、分岐点を見極めようとポジティブに思考する初心者は少なく、それが3DダンジョンRPGを袋小路に誘う要因のひとつとなったのではないでしょうか。
 世界樹の迷宮はそうした初心者が感じるであろう敷居を出来るだけ低く低くしようという思想が随所に垣間見られます。コアゲーマー向けであることを常々標榜されている世界樹ではありますが、その根底に流れているのは初めて3DダンジョンRPGを経験するであろうプレイヤーに対する様々な配慮です。
 だからこそ私としては「3DダンジョンRPGってどんなの?」というプレイヤーにこそ、世界樹を体験して欲しいと思うのですね。
 DSでゲームを始めた方に。シレンとの区別がつかない方に。Wizで躓いた方に。ここには3DダンジョンRPGの楽しさが詰まった世界が広がっています。ぜひ一度触れてみてください。