世界樹の迷宮・その35前編(B20F)

 パラディン♀ アリスベルガの日記


 巨木の洞に身を横たえていた私達を目覚めに導いたのは、激しくぶつかり合う金属音と間断なく沸き起こる鬨の声だった。


 「起きてくれ、ルーノ。長居をしすぎたようだ。」


 私は鉛のように重い上体を引きずるようにして起こすと、枕元に揃えて置いた篭手を取り上げて装着を始める。
 ルーノは目元を拭うと、覚束ない足取りで外界に繋がる虫食い穴に目を当てる。


 「彼女の言っていた通りですね。執政院のミッションでしょうか。」
 「正規兵の姿が見える。間違いない。」


 普段は都市辺縁部に配備されている彼ら正規兵が迷宮に投入された。
 それはすなわち執政院がモリビトをエトリア周辺に点在する各種勢力と同軸上の脅威として認めたことを意味する。
 『雪走り』や『森王』の件では所有兵力の投入を渋っていた執政院だがどうやら今回ばかりは本気の度合いが一味違うようだ。


 「好機だ。モリビトの目が奴らに向いている隙に中枢へ侵入するぞ。」




 (便宜的にそう呼ぶことにするが)エトリア軍は劣勢に追い込まれつつあった。
 当初は圧倒的な物量を以って迷宮深層部まで破竹の進撃を続けたエトリア軍であったが、最深部であるモリビトたちの城砦に辿り着いたところで戦況は一変した。
 木々の合間から現れた異形の巨漢が進軍ラッパと共に行進を続ける正規軍の一団を壊滅に追いやったのだ。


 詳しい順序を述べるとこうなる。
 左右に木々の聳える随道に差し掛かった正規軍の中隊は正面に巨躯のモリビトの姿を捉えた。
 弓矢で武装する彼ら中隊は先んじて長距離からの集中砲火を仕掛けたが、弧を描いて着弾した矢の悉くは松の樹皮にも似た厚い体皮に弾かれるだけに終わり、モリビトはまるで怯む様子を見せない。ならば次はと、各々剣を振るって攻撃を仕掛けるも、モリビトはじゃれつく嬰児を振り払うように容易に彼らを払いのけると、その巨木を思わせる豪腕で勇敢なる戦士一同に痛烈な一打を加えたのである。
 直撃を受けた兵士は蹴飛ばされた子犬のように枯れ木を薙ぎ倒して吹き飛んだ。確認するまでもなく生死の判別はついた。
 兵士達は浮き足立ったが逃げることは許されなかった。背後を見せた直後、巨躯のモリビトの吐き出す炎の吐息を浴びて、彼らは錬金術師と相対したマンドレイクと同じ末路を辿ることになったのだ。


 兵士達は彼ら巨躯のモリビトを『悪魔』やら『悪鬼』やらと呼んでいた。確かに彼らはそう呼ばれるに足りる悪魔的な膂力を備えていたが、「悪鬼羅刹を打ち滅ぼさん!」と高らかに宣言して迷宮に乗り込んだ彼らエトリア軍が本当の悪魔に遭遇して震え上がる絵面はどうにも苦笑を禁じえないものがある。
 笑いごとじゃありませんわ、とルーノに窘められて私は表情を引き締める。確かに彼らは難敵だ。正面からぶつかってまともに勝てる相手ではない。私としては彼らエトリア軍が攻略は困難であると悟って撤退を開始するのを待ちたかったのだが、どうやら彼らに転進の二文字はないらしい。あるいは執政院が彼らの手綱を握り締め、現場の判断が中央に了承されない状況にあるのかもしれない。
 いずれにせよ確かなことは、このまま戦線を維持したところで状況を打開する策がなければ彼らは早晩逃げ帰る羽目に陥るということである。


 そして、かく言う私達も手詰まりの局面にあった。中枢に繋がる各種回廊は全てあの『悪魔』の巡回によって固く守られていたのである。
 当然ながら力押しの利く相手ではない。なにより仲間を呼ばれると厄介だ。『悪魔』の挙作からはそれほど高い知能は窺えないのだが、巡回の組み立ては互いに互いの死角を補う秀逸な配置だった。本能によって最適解を得ているとは思いがたい。となると、やはり彼らの背後に潜む者が命令を下しているのだろう。ツスクルの言っていた『神』か?
 私達は目標に限りなく接近している。そのことを理解していながらも、あと一歩を踏み出すための機会を得ることが出来ない。もどかしい。何かこの局面を打破する手はないかと頭を働かせるも、ただ刻々と時間が過ぎていくのみだ。




 しかし夕刻を回って、私達の疲労と緊張がピークに達した頃、状況に劇的な変化が訪れた。それを演出したのは他でもない『悪魔』の横暴に怯懦の極みにあったエトリア軍だった。


 「何か焦げ臭くありませんか?」


 先に異常に気づいたのはルーノだった。彼女の言うとおり私の鼻腔を咽るような焦臭が突き刺す。彼方には立ち上る黒煙。薪をくべる音にも似た木々の爆ぜる音。五感を刺激するこれら情報が導く答えは一つしかない。


 「火を放ったのか!」


 エトリア軍にも秘策はあったのだ。ここ枯れ森はその名の通り枯れ木の乱立する灰色の森だ。従って第1層のような湿潤な森林に比べて火の回る速度は桁違いだ。当然ながら焦土と化した大地からは資源の多くが失われるが、彼らに事後を鑑みる余裕がないのも事実なのだろう。いや、却って整地もできて好都合とでも考えているのかもしれない。
 私達は退却を迫られた。私達は中枢に程近い草むらに身を潜めていたのだが、明らかに火勢はこちらに向いている。迷宮の中では火勢を沈める豪雨の到来も期待できない。おとなしく引き下がるしかない。


 モリビトに見つからぬよう、木々の合間を縫うようにいて私達は辺縁部へと移動する。そこで私達が見たのは松明や炎を纏った剣を手に『悪魔』と矛を交える兵士の集団だった。
 『悪魔』の誇る驚異的な身体能力も、次々と浴びせられる炎の洗礼の中では存分に発揮することが叶わない様子であった。先ほどは兵士をまるで虫けらのように捻っていた『悪魔』が今や攻守を逆転して追い立てられている。彼らモリビトはどうやら炎を何よりも苦手としている様子だった。
 今やエトリア軍は完全に劣勢を挽回しつつあった。火勢はさらに勢いを増し、迷宮を舐めるように焼き払っていく。そして兵士や冒険者は持参した『ファイアオイル』を自らの武器に塗りたくると、炎の壁の中から逃げるようにして現れる『悪魔』たちに襲い掛かり、彼らを生きたまま火葬に付すのだった。




 だが、舞台は更に転変を迎えようとしている。
 戦場を震わす一陣の突風。誰も彼もが顔を伏せ、続いて頭上を過ぎ行く巨影を仰いだ。
 熱風にゆらめく大気の波を悠然と飛翔する黄金の翼。天空を駆ける日輪の主は空気を劈く雷鳴のような鳴き声を上げると、地上に向かってその巨翼を激しくはためかせたのだ。
 激しい嵐風が吹き荒れた。私達は手近な枯れ木にしがみつき、我が身を吹き飛ばされぬよう必死に堪えた。薄く見開いた瞳に映るのは突風に抗うこと能わず、まるで枯れ草にように上空にその身を舞わせる兵士達の姿だ。
 台風か。あるいは竜巻か。私達が今遭遇しているのは絶対的な自然現象と遜色ない。ならば、やはりあの巨鳥。この騒乱を生み出したあの黄金の影こそ、ツスクルが私達に語ったモリビトたちの守護神。『岩をも破る者』なのか。

 気がつけば突風は収まっていた。そして視界を埋め尽くす炎の壁もいつの間にか消失してしまっている。後に残ったのは焼け落ちた枯れ木の惨姿とうず高く積もった灰の大地だけだ。
 人間がその英知を結集して挑んだ大規模な焦土作戦は『岩をも破る者』のはためき一つで破られた。新たな予期せぬ天変の襲来にエトリア軍は万策尽きたことを悟ったのだろう。突風の被害から辛くも逃げ延びた彼らは指揮権を集めると矢継ぎ早に撤退の指示を開始した。
 しかし、寝所を侵した彼ら矮小なる者どもを大空の王が見過ごすはずもなかった。トンボのように空中静止していた『岩をも破る者』は腰を支点に頭部を地上へ向けると、エトリア軍の中央に向かって凄まじい勢いで急降下を開始したのだ。
 地面スレスレにまで突っ込んだ『岩をも破る者』が弧を描くように上空へと舞い戻ると、左右あわせて8本の爪にはそれぞれ1人ずつ兵士の体が突き刺さっていた。上空を旋回した大鷲はやがて巨木の枝先に器用に兵士の体を突き刺していく。
 やがて遺体の花咲く緋色の枯れ木を完成させると、大鷲は満足げに喉を鳴らしてその頂上に降り立った。そして燃えるような真紅の瞳で恐怖に立ち竦む人間達を睥睨し、更なる芸術を完成させるべく2度目の滑空に入ったのだ。
 またしても8本の爪に貫かれた8人の遺体。そして鮮やかに綻ぶ花8輪。なんと鮮烈で、そして煌びやかな地獄。人々はこの獰猛でユーモア精神に溢れる芸術家の前にたじろぐことさえ許されず、確実に殺されていく。
 ツスクルから話を聞いていたからこそ、こうして私も何とか気を保っていられるが、何も知らずにこの場に合わせれば或いは卒倒してしまったかもしれない。これは、私が今まで見てきたあらゆる刑罰の中でも最も残忍な処刑法である。

 2度目の飾り付けを終えた大鷲は、枯れ木の頂上で梟のように首を捻じ切れんばかりに捻って周囲を見回していた。そしてお目当ての獲物を見つけると3度目の滑空を開始する。絶対的捕食者の完璧な狩猟に抗う術などない。またしても獲物を両の爪先に捕らえた狩人は再び上空に舞い上がった。
 一見、それは今までと同じ猛禽類の狩猟法の繰り返しだったが、私はしかしそこで我が目を疑った。『岩をも破る者』がその爪に捕らえた獲物は彼の眷属であるはずの、あの『悪魔』だったのである。
 流石に人間と比べておよそ数倍の重量がある『悪魔』だ。爪一本で一刺しというワケにはいかない。片足を一杯に使って『悪魔』を捕らえ、もう片方には最後の抵抗を虚しく続ける『悪鬼』を捕らえている。そして大鷲は先ほどと同じように彼らまでも枯れ木の枝に飾り付けると、次いで嘴で彼らの頭をもぎ取って水音を立てながら天を仰いで嚥下したのである。
 バカな! 私は自分がこの目で見たものが信じられなかった。彼は、『岩をも破る者』はモリビトの守護神ではなかったのか?
 彼らモリビトは自らの身を挺し、守護神に危害が加えられることを未然に防ごうとしたのではないのか?
 なぜ彼はそんな信仰厚い信者達を自らの手にかけるのだ?

 しかし、未だなお続く守護神の信者への狼藉を見て取って、私はようやく彼らの関係について納得のいく推測を得ることが出来た。
 この神は、『岩をも破る者』は、モリビトにとっての荒神なのだ。彼らモリビトはこの神の恩恵を受けるために奉っているのではない。この神の災厄を避けるために奉っていたのだ。
 だからこそ彼らモリビトは人間の森への侵入を頑なに拒んだのだ。『岩をも破る者』が怒りに目覚めれば、その災厄を鎮めることは出来ない。モリビトも人間も等しく彼の獲物となり、彼の怒りが収まるまで蹂躙が続く。
 モリビトはその名の通り、破壊神の災厄から世界を『護る人』だったのだ。そんな彼らの役割を知らず、領土欲から迷宮に手を伸ばした我々人間は全く以って愚か者だったと言わざるを得ない。
 迷宮に立ち入り、モリビトに関わった全ての行為は等しく破壊神の怒りを買うだけの行いに過ぎなかった。執政院の侵犯だけが責められるのではない。この私も同罪だ。双方の平和? 友好? 協調? 笑わせる。両者を歩み寄らせようとした結果、私は両者を破滅の断崖に追い詰めてしまったのだ。なんて無様な偽善なんだ。




 未だにあの大鷲は狩猟を続けている。飾り付けにも飽きたのだろうか、今度は雑草を引き抜くかのような気軽さで人間たちを引き裂いている。そして返す刀で『悪魔』を、『悪鬼』を、啄ばみ、羽根で打ち据え、爪で切り裂き、血の海に沈める。相手が信奉者であるか、そうでないか、彼にとっては一切関係ない。彼にとって世界は唯一彼一人のもの。彼の意に反する行いをするものは全て許されざる者なのである。


 私は、腹の底に澱んでいく恐怖の塊を感じて、大きく息を吐いた。余りに残酷な場面に出くわしたせいだろうか、一切の感情が麻痺してしまっている気がする。今や暴君と化したモリビトの神の行いを目の前にして、私の心は驚くほど穏やかだ。
 或いは死を覚悟したせいなのかもしれない。この暴風の化身から逃れることは不可能である。ならばいっそ刀傷の一つも加えてやって、この神が苦痛に呻く姿を見てから死んで行こう。そんな考えにも至ったのである。
 だが、足を一歩踏み出そうとして、私は体が竦んでいることに気づく。私は恐怖を超克したのではない。恐怖に縛られ、諦観しているだけだったのだ。それを自覚して体が鉛のように重くなる。死への恐怖。生への執着。私は死にたくない。死にたくない!

 その瞬間、私と『岩をも破る者』の目があった。私は彼の赤く輝く瞳の中に大鎌を振るう死神の姿を見てとった。
 彼はこちらに体を向けると、爪に引っかかった哀れな兵士の死骸を、まるで靴についた泥を落とすように振り落とし、そして黄金の翼を大きく広げて自らの存在を誇示する。死にゆく恐怖に囚われる私を嘲笑うかのような振る舞いだった。


 「アリス、しっかりして!」


 ダメだ、ルーノ。私はダメなんだ。私には何もできない。
 主命を果たすことも。迷宮を踏破することも。あなたを守ることも。人間とモリビトを和解させることも。何もかも。
 私の力は足りない。私一人では何も出来ない。私は弱い人間だ。私は……!


 そして『岩をも破る者』が跳躍した。黄金の翼を力一杯はためかせて、檻のように狭くて小さな、しかし誰もが手の届かない迷宮の天井まで舞い上がる。彼の目には私の姿。そして彼は反転し、やがて勢いをつけて急降下を開始する。


 「アリス、逃げてーっ!」


 ルーノの悲痛な叫びが私の鼓膜を叩いた。




 長くなってしまったのでここで一時中断。