世界樹の迷宮・その38前編(B21F)

メディック♀ ルーノの日記


 弾ける火花と共に響く甲高い金属音。
 アリスの手を離れ、宙を舞った大剣は、遥か眼下に霞む遺跡群へと弧を描いて吸い込まれて行きます。


 「勝負あったな。」


 『氷の剣士』レンは刀の切っ先をアリスの喉元に突きつけ、死闘の終結を宣言しました。
 しかし武器を失った今もなお、アリスの瞳から輝きが失われることはありません。相対する『氷の剣士』の一瞬の隙さえ見逃すまいと、その眼は真っ直ぐに『氷の剣士』に向けられています。
 とは言え、相手は数多の歴戦の冒険者を屠ってきた『氷の剣士』。その二つ名が示すように冷徹な判断力と心胆を寒からしめる比類なき剣捌きを併せ持つ彼女が、果たしてアリスの望むような油断を窺わせるものでしょうか?


 「アリスっ!」


 このまま睨み合っているだけでは埒があきません。
 反射的に私は彼女に駆け寄ろうとしましたが、その瞬間、私の足は地面に貼り付いたように前に出ることを拒否し、膝から力が抜けた私は前のめりに地面に倒れ込んでしまいました。
 まるで局部麻酔をかけられたかのように私の足は自由を失い、力を込めることはおろか、履いている靴の感触さえも伝わってきません。今や私の足は冷たい一対の蝋細工と化してしまっています。
 『封の呪言』。
 それが『呪い師』の得意とする呪術の一つだと気づくのに時間はかかりませんでした。
 私は上半身を捻って『氷の剣士』の脇に控える『呪い師』の姿を見据えます。彼女は感情の篭らない冷たい瞳で私を見つめ返しました。


 「邪魔はさせない。」
 「アリスっ!」


 私は匍匐前進する兵士のように、両腕で体を引きずってアリスに這い寄ろうとします。
 ですが、死者に手向ける経文にも似た『呪い師』の呟きと、透き通るような鈴の音が耳に入った瞬間、今度は両腕からも力が抜け、私は地面に突っ伏しました。


 「邪魔はさせない。」


 私の両腕は今も健在です。私はそれを視認することが出来ます。しかし、この腕は私の意志に反してぴくりとも動こうとしません。それどころか私の感覚では、肩から先の全ての感覚がすっかり欠落してしまっているのです。まるで両腕が肩から切り落とされてしまったように。
 四肢の自由を奪われた私は無様に地に伏せたまま、首だけを反らして2人の動向を見守ります。


 「最後に何か言い残す事はあるか?」
 「あなたはいつまでこんな生き方をするつもりなんだ!」
 「未来永劫。」
 「それがあなたの望みなのか!」
 「『王』の望みだ。」


 アリスは敢えて『氷の剣士』の神経を逆撫でする言葉を選んでいるようでしたが、その試みも全て柳に風と受け流されてしまいます。
 何か、何かこの窮地を脱する手段はないのでしょうか。このまま朽ち果てた倒木のように身を横たえて、大切な人の命が奪われるその瞬間を、私はただじっと見守ることしかできないのでしょうか。


 私は、アリスの力になりたい。


 アリスを守るために私は故郷から遥かなエトリアの地まで赴いたのです。今、私がアリスを救えなかったら、私は一体何のためにここにいるというのでしょうか。
 いつでも私を気に掛けてくれて、どんな我侭も快く受け入れてくれたアリス。さすがにエトリアへの同行は苦い顔を見せたけれど、でも、アリスは私を信頼して最後には同伴を許してくれました。
 今ここでアリスを助けられずに、私はどうやってアリスの信義に応えられるというのでしょう。私はアリスを助けたい。そして今、アリスを救えるのは私だけなのです。
 でもどうやったら? どうやったらアリスを助けられる? この身を束縛する呪術の枷は私の四肢の自由を奪い、抗うための手段の悉くを封じ込んでいます。
 なんとかこの呪術を逃れて、断頭台にかけられた彼女を救う手立てはないのでしょうか?


 「呪術は心を縛る技。あなたは決して逃れられない。」


 本当にそうなのでしょうか?
 呪術は呪言や鈴の音を用いて、対象の自律神経を撹乱する技術です。催眠術の一種とも言えます。
 しかし呪術はあくまで生理反応を利用した技術。肉体に物理的な影響を与えるものではありません。呪術による効果は全て暗示によってそう思い込まされているだけに過ぎないのです。
 ならば掻き乱された神経伝達の状態を正常に復することで、呪術の縄から抜け出すことができるのではないのでしょうか。


 稚拙な論法です。空論かもしれません。でもアリスを助ける為に私は無為ではいられないのです。


 私は、目を瞑り、意識を集中して心音を確認します。
 仮に「心臓よ、止まれ!」と命じても心臓が止まることがないように、人間は自らの意志の力のみで死ぬことはできません。
 生命活動を司る中枢神経は人体において最も実直で機械的な神経系です。
 逆に言えば中枢神経は暗示に最も耐性のある神経系なのです。
 ゆえに呪い師も相手を直接呪い殺すことは出来ません。四肢を操って物理的に撲殺するのがせいぜいなのです。


 心音を把握し、中枢神経の働きが正常であることを確認すると、私は心臓から辺縁部に向かって、植物が地中に根を伸ばすように意識の輪を広げていきます。
 血管の拡張と収縮。鼓動と共に押し出される血流の流れを私は感じ取ります。
 それは最も原始的な五感である『触感』。体内を巡る血液の繊細な熱を神経で感じ取り、そして徐々に末端まで押し広げていきます。心臓から肩へ。肘へ。腕へ。そして指先へ。そう、私の腕は失われたのではありません。今もこうして生命の循環を続けているのです。
 それを意識した途端、私の右腕は急速に感覚を取り戻します。同時に肩口に圧し掛かる重さ。しかしそれは力強い重さです。
 私は未だ痺れの残る右手でキタザキ先生の処方した薬を不器用に取り上げると急いで口に含みます。本来は魔物の持つ麻痺毒を中和するための薬です。しかし、この薬は呪術による呪縛も『解除できるような気がします』。
 途端に私の四肢は活力を取り戻し、全身を巡る血潮の熱を帯びました。


 プラシーボ効果と呼ばれる治療効果があります。薬効成分を含まない偽薬を薬と偽って投与した場合、患者の病状が良好に向かってしまう治療効果のことです。
 呪術とは暗示なのです。ならば暗示を解くために暗示をぶつけるのはある意味で理に叶ったやり方です。
 でもキタザキ先生は名医ですから、意外と本当に効いてしまったのかもしれません。


 四肢の自由を取り戻した私は、急いで立ち上がると、両手に掴んだ杖を振り上げ、『氷の剣士』目掛けて飛び掛りました。


 「アリスを放してっ!」


 渾身の力を込めて振り下ろされる杖。私の声に気づいた彼女は身を捩じらせて攻撃をかわそうとしますが、杖の一撃からは逃れられません。


 「バカ、な……!」


 私の両手に鈍い衝撃が伝わり、驚愕に目を見開いて『氷の剣士』が呻きました。そして彼女の両腕に『呪い師』が倒れこみます。
 『氷の剣士』レンは彼女を確と受け止め、まるで赤子のように首の定まらない彼女の頭部を右手で抱きこみました。


 「ツスクルっ!」
 「レン、あなたは、私の……」


 呪言が間に合わないと咄嗟に判断したツスクルは身を挺してレンを庇ったのです。しかしその代償は余りに大きなものでした。杖の一撃は彼女の肩口を正確に捕らえ、鎖骨と頚骨を粉砕した確かな手応えを返してきました。今も私の掌は熱を伴って痺れるような触感に支配されています。


 「貴様ぁっ!」


 『氷の剣士』の名にそぐわない、憤怒の炎に揺らぐ双眸が私を捉えました。
 常人ならばそれだけで気絶しかねない、圧迫感を伴う殺気を放ちながら、彼女は刀を鞘に滑らすように収め、上体を伏せて猫科の大型動物のように全身のバネを漲らせます。
 音速の居合。モリビトの首を跳ね飛ばしたあの絶技です。
 私が杖を構えようと息を吸ったその刹那に、彼女は既に3歩目の踏み込みを終え、後は刀を抜き放ちさえすれば、確実に私の首を跳ね飛ばせる距離にまで詰め寄っていました。


 「死して樹海の土に還れっ!」


 しかし、鯉口を切った彼女は刀を抜くこと能わず、膝から折れて前のめりに倒れ込みます。
 虚ろな瞳で呪詛の言葉を吐きながら地に伏せる彼女を呆然と見守る私に、聞き知った友人の声が届きました。


 「間一髪だったな。大きな賭けだったが…… 天はこちらに味方したようだ。」


 アリスの手には大鷲の紋章が描かれた鋼鉄の大盾。そう、盾の一撃でアリスは彼女を昏倒させたのです。


 剣一本を輩とし、剣技に絶大な自信を持つ彼女だからこそ、彼女には騎士の真の武器が見えなかったのです。剣を取り落としてなお、アリスの手には勝利を勝ち取るための最後の武器が残されていました。それこそがあの大盾。騎士の誇りにして、騎士の名誉。騎士の生き様を雄々しく高らかに示す御爾です。
 アリスは右手を差し出して私の肩に軽く手を添えます。それから3度「もう大丈夫だ」と言うように優しく私の肩を叩いてくれました。
 『氷の剣士』の居合いを目の当たりにして知らないうちに体が強張っていたのでしょう。痺れが抜けるように筋肉から緊張が解け、私はしなだれかかるようにアリスに身を寄せました。


 「全てルーノのお陰だ。ありがとう。そして、危険に晒してしまって済まない。」
 「いいえ、私はアリスを信じてました。……だから、平気です。」




 「……もう、終わりにしましょう。」


 私とアリスは一斉に視線を声の出所に転じました。
 『呪い師』ツスクル。彼女はレンを庇って絶命したハズでは……
 彼女は身を横たえたまま、うっすらと瞳を開け、刀を頼りに膝立ちになったレンに向かってか細い声で話し掛けます。
 レンは覚束ない足取りでツスクルに駆け寄ると、しゃがみ込んで声を掛けます。


 「ツスクル! 無茶をするな!」
 「……レン、終わりにしましょう。この戦いは私達の負けよ。」
 「バカな! 私達には『世界樹の種』がある!」
 「……甦生には時間が必要よ。それだけの暇があれば、彼らは『王』の御許に間違いなく到達する。これ以上の戦いは無駄よ。例え刺し違えたところで……」


 全てを言い切る前に彼女は私達の後方に控える仲間を見やります。
 そう、例え彼女が私達2人を下したとしても、残るティークラブの仲間まで切り伏せるのはかなりの難題と言えます。いくら彼女ほどの凄腕の剣士と言えども、傷つき消耗し、万全を欠く状態にあっては、冒険者相手に不覚を取る事態も容易に想像がつきます。


 「……彼らは強いわ。私達よりも。それはあなたも理解できたはず。」
 「……」
 「……認めなければならないわ。彼らは私達よりも強くなってしまった。これ以上の戦闘は無意味よ。」
 「だが、それではヴィズルに顔向けできない……!」


 唐突に聞き知った名前が飛び出て私達は思わず顔を見合わせます。
 ヴィズル。執政院の長の名前。執政院直属の彼女達の口から長の名前が出ることは別段不思議な話ではありません。
 ですが、会話の文脈から判断すると彼女達の言うヴィズルは間違いなく『王』を指し示しています……


 「……レン。私達が『王』から使命を与えられてどれくらいになるかしら。」
 「わからない。数え切れないほどの春と夏と秋と冬が過ぎた。ただただ遠い昔の話だ。」
 「……レン、私はね、もう充分『王』への報恩は果たしたと思うの。永年の孝養を果たした今、あなたはもう自由になっていいハズだわ。」
 「自由!? 自由だと!? 既に私は自由だ! 老いを超越し、死を超越し、思う侭に迷宮を闊歩する! これ以上の自由があるものか!」
 「……違うわ。私達は迷宮という名の檻に捕われている。『王』の掌の上でのみ囀ることを許されたひ弱な小鳥に過ぎないのよ。」


 誰よりも壮健で、誰よりも健脚な彼女達。しかしこの数千年の年月の間、彼女達が迷宮を離れたことは恐らく一度もなかったのでしょう。『王』からの使命を帯びた彼女達は、ただ『王』の駒として生きる道のみを与えられていたのです。


 「ヴィズルを裏切れと言うのか……!?」
 「……違うわ。私達はもう『王』の役には立てない。『王』の願いを果たす力がない。私達はそれを認めた上で、新しい生き方を模索して行かなければならないの。」
 「だが、私は誠忠を果たす以外の生き方を知らない……!」


 「本当にそうかしら。」


 レンの言葉を遮って、アリスが一歩踏み出しました。レンはアリスに向き直ると、自嘲するように呟きます。


 「私は父に教え込まれたのだ。忠に生きよ。家に殉ぜよ。それが武士道の斯道であると。父の顔はもう忘れてしまった。だが、父の教戒は今もなお私の胸にある。」
 「だからなお『王』に純忠を尽くすと?」
 「そうだ。それが私に与えられた当為なのだ。それが私に許された生き方なのだ。」


 この言葉…… この言葉をどこかで私は聞いたことがあるような気がします。
 そう、それは確か……


 「人はもっと自由に生きられるハズだ。」
 「浮草の如き冒険者風情が士道に口を挟むとは滑稽な話だな。」
 「いいえ、私も士道の路傍に寄与する者。だから私にもわかる。」
 「なんだと……!?」
 「私も同じ。主に仕え、名誉に殉ぜよと祖父に教え込まれた。幼少の折から、ずっと。それ以外の生き方など考えたこともなかった。」


 ああ、そうです。私はアリスの口から彼女と同じ苦悶の呻きを聞いたのです。
 アリスは早世した彼女の父親の代わりとして、代々続く門地を継承すべく理想の騎士としての生き方を祖父から義務付けられました。
 騎士道と武士道。生まれは違ってもその根底に共通して存在するのは堅固な美意識の発露です。しかし、道とは理想の体現であるがゆえに時に現実を見失い、教条的で観念的ないびつさに凝り固まってしまうこともあるのです。
 アリスはレンの姿にかつての自分を見て取ったのでしょう。理想と現実。主君と自分。義務と権利。その両者に挟まれて煩悶する求道者の姿を。


 「華美で、優雅で、しかし退廃した、蜂蜜色の牢獄のような故郷を離れて、私は初めて自由の意味を知った。あなたも新しい世界に触れればきっとそれがわかる。迷宮だけが世界の全てじゃない。」
 「だが、私と君とでは重ねてきた年月が違う。」
 「人はいつからだって生き方を変えられる。遅きに失することなどない。」


 恐らく、アリスの言を完全に咀嚼することは、今の彼女にとっては難しいことでしょう。
 アリスとて、義務と自由の狭間でもがき苦しみ、大悟するまでに長い時間を要したのです。
 ましてや彼女は数千年にも続く日々を忠勤に費やしてきたのです。『王』の命にただ従い、迷宮を進む冒険者をその手に掛けて。
 迷宮に迷い込んだ無辜の冒険者の命を奪う。主命ゆえとは言え、その行為の正当性を自らに納得させるのにどれだけの覚悟と信念が必要だったのでしょうか。彼女の手は長きに渡り血に染まり、覚悟に固まり、信念に磨かれています。
 アリスの言葉はそうまでして貫き通した彼女の節操を根底から引っくり返してしまう示教です。それゆえに彼女が今すぐ納得できるとはやはり簡単には思えません。
 もし、彼女の意趣を翻すことが叶うとしたら…… それはやはり彼女と同じ時間を重ねてきた人物の力が必要になるのでしょう。
 『呪い師』ツスクル。浅い呼吸を繰り返す彼女は息も絶え絶えにレンに話し掛けます。


 「……レン、良く聞いて。モリビトは自立の道を選んだわ。」
 「なんだと……!?」
 「……『岩をも破る者』を失った彼らモリビトは枯れ森を捨てて、新たな地へ旅立ったの。」
 「バカな! この数千年の間、奴らは『王』の言に盲信的に従っていたのだぞ! 子供騙しの儀式を飽きもせず続けるぐらいに! その奴らが…… 自ら『王』の元を離れるなど……! バカな……! ありえん……!」


 モリビトの決断は彼女にとっては衝撃的な宣告だったようです。彼女の素振りの悉くに今までにない動揺が見て取れます。
 『王』から『世界中の種』に連なる力を与えられた彼女達とは異なり、力のない、寄る辺のない彼らモリビトは『王』の庇護の元にあって初めて生存の権利を許されていました。その力なき民人が自らの意志によって風雨を凌ぐ傘から抜け出る。そんな日が訪れることを彼女は想像もしていなかったのでしょう。
 或いは彼女は長い共生の末にモリビトを自らの同族と見なしていたのかも知れません。それだけに彼らと自分の間にあるハズのない齟齬を見出し、今までにない混乱を来たしているとも考えられます。


 「彼らモリビトでさえ、新時代の到来を理解し、数千年に渡る守旧を捨てた。あの騎士の言う通り。人はいつからだって生き方を変えられるのよ。」