世界樹の迷宮・その39前編(B21F)

バード♂ エバンスの日記


 「あなたに伺いたいことがあります。」


 治療を受ける呪い師に注がれていた視線から寂寥の影が消え、彼女は警戒心を顕にこちらを振り向く。
 私はその視線に無言の圧力を感じて軽く顎を引いた。


 「何を語れと?」
 「昔話を。」


 モリビトの少女の話では、かつてモリビトが人間との接触から諍いを経て『協定』を結んだ際、彼女と『呪い師』ツスクルは『王』とその眷属の元へ遣わされ、以後『王』の手となり足となり、この数千余年を『王』の意を叶える尖兵として迷宮の闇を司っていたのだという。
 気が遠くなるような長い歳月を彼女達は薄暗い土牢の奥底で過ごしてきた。そんな彼女達の過去を知る者は、地上には誰もいない。


 彼女達はなぜ『王』の元に遣わされたのか。
 彼女達はなぜ『王』に重用されたのか。
 彼女達はなぜ『王』の命に従い続けたのか。


 私はそれが知りたかったのだ。




 彼女は自嘲するように小さく笑うと、吐き出すように言を放つ。


 「色褪せ、風化した過去の記憶を掘り起こして、誰が益するというのか。」
 「私の飯の種になります。」


 彼女は明らかに虚を衝かれた様子で私を注視する。


 「冗談ですよ。リュートの調べと共に詠い上げるにはあなたの重ねた歳月は重過ぎるようです。」


 私はリュートを一撫でする。謝肉祭のパレードを想起させる陽気な音色が無機質の回廊に場違いな響きを残して吸い込まれていく。


 「もっとも英雄譚を奏でるにはこの上ない題材ではありますがね。『氷の剣士』と『呪い師』。冒険者を辞めてもこれ一本で食っていけそうですよ。」
 「……酒場受けするような煌びやかな逸話はないさ。」
 「というと?」
 「それが君の手口か。語りたくない過去を敢えて語らせようとする。」


 或いは誘いに乗ってくれれば、とも思ったが、そう簡単に話は運ばないようだ。打つ手を失って私は心の中で嘆息する。
 彼女はこの迷宮の創生に関わる『王』に最も近い人物の一人だ。その彼女の口から私は『王』に纏わる種々の情報を引き出したい。しかし、同時に私は彼女に無理強いをさせたくもないのだ。
 彼女の口から過去が紡がれる時。それは彼女が悲痛に満ちた人斬りの過去と直面せざるを得ないことを意味する。
 この数千年の間、頑なな信念と忠心によって塗り固められた自己欺瞞の殻が、『呪い師』ツスクルの仕掛けた呪言によって破られた今、彼女は護衛を伴わず山道を歩く貴婦人のように極めて無防備な姿を曝け出している。
 そんな彼女に過去を語らせるのは、彼女の心臓に杭を打ち込むのと同義だ。果たして私にはそこまでして真実を追い求める権利があるのだろうか。


 「……真面目に答えて欲しい。なぜ、君はそれほどまでに知りたがるのか。」


 いつの間にか彼女の瞳には清冽な意志の灯火が宿っていた。
 先ほどの戦闘の直後、悔恨と非望に打ちのめされた彼女の瞳は虚ろな闇に閉ざされていた。世界の終焉を垣間見たような絶望の粒子を纏っていたのだ。
 ならば彼女は暗黒の淵から自らその身を引きずり上げたのだろうか。


 「『王』に会うためです。」


 私は自分を恥じ入った。
 何のことはない。彼女は既に自分の過去と向き合う覚悟を固めていたのだ。にも関わらず、私は飄々と彼女に接し、彼女が気安く話し始めるよう仕向けた。なんのために? 彼女が傷つくのを恐れてだ。
 しかし、それは完全な過ちだった。彼女は既に自らの過去を見据え、自らの意志で過去の事実を披見するべきか思索している。私の気遣いは全く以って見当外れの暴投だったのだ。
 逃げていたのは、私だった。彼女を傷つかせたくなかったのではなく、自分が傷つきたくなかったのだ。
 私は彼女の精一杯の覚悟に対し、真摯な姿勢で応えなければならない。それが彼女の心に傷を負わせることになったとしても、その痛みを理解と共感で和らげなければならない。


 「『王』に会って問い質したいのです。この迷宮の真実を。……ただ、それを果たすには前提となる情報が致命的に欠けています。だから私はあなたに問いたい。過去にあなたと『王』の間に何があったのか。そして、なぜ『王』はそれを望んだのかを。」
 「ヴィズルの言を信じるも否も、全ては私次第と言うことか。」
 「お願いできますか?」


 彼女は床に腰を下ろし、片膝を立てて胡坐を組むと、視線を床に落とした。


 「私が抱えている罪は、君が考えているよりも恐らくずっと重い。」
 「その重荷の幾ばくかを担えたらと思います。」


 彼女は背中を壁面に預けて天井を見やり、一つ嘆息した後呟いた。


 「……ツスクルの治療が終わるまでだ。」




 「彼らは自らのことを『トオクニの民』と呼んでいた。ゆえに私も彼らに従って、彼らの名を、そして私自身を『トオクニの民』と呼び表すことにしよう。」


 『トオクニの民』とはかつてこの迷宮の地表部に生活圏を築いた一族の名だ。彼女達、武士道や呪い師は『トオクニの民』の中でも支配者層に位置する身分で、当時は彼らを中心にした封建的な生活が営まれていたらしい。


 「ある偶然によって『トオクニの民』は樹海の只中に迷宮に繋がる割れ目を発見した。そして彼らは今の君達と同じように迷宮に立ち入り、その恩典と特恵を授かったのだ。」


 彼らの辿った足取りは私達と同じだ。迷宮の発見に歓喜した彼らは更なる深層への探索を開始し、やがて迷宮の奥底に住まう先住民と予期せぬ形で際会した。
 私達と彼らで決定的に異なっていたのは、彼らの間には『協定』がなかったことだ。従って双方の初めての接触は存外にも穏やかなものだったらしい。
 しかし、時を経ると共に深層への侵食を強める『トオクニの民』にいつしかモリビトも態度を硬化させ、やがて私達が伝え聞くところの無慈悲な衝突と、それに伴う『協定』が結ばれたのだと言う。


 「では、『協定』はエトリアの人間が結んだものではない……?」
 「そうだ。彼ら『トオクニの民』の血を引くものはこのエトリアの地では私達だけだ。ゆえに君達とモリビトの間に相互不可侵の盟約などといったものはそもそも存在しない。」


 私はかつてベルダ広場と迷宮とを繋ぐ獣道で彼女の言い放った言葉を思い出す。


 (人間とモリビトの領域に境界線を定めた『協定』など妄言以外の何物でもない。)


 あの言葉は事実だったのだ。モリビトにしてみれば『トオクニの民』もエトリア市民も同じ『地上の人間』にしか映らない。ゆえにモリビトはエトリアの不義を責め、人間はモリビトを嘘吐きだと罵る。
 しかし実際にはどちらにも非はなかったのだ。モリビトが盟約を交わした相手はとうに地上から消え去り、そして人間にはそもそもモリビトと対面した過去さえもない。モリビトと人間の怒りの矛先は完全に向きを誤っていたのだ。
 ならば人間とモリビトの不幸な接触は、ただの誤解に過ぎなかったというのか。そんなバカな!
 人間とモリビト、双方が己の生命と幸福を追求するが余り、両者は矛を交え、共に深手を負った。その悲しみを乗り越えて、私達はようやくモリビトと人間、共に共存する為の道を見出した。私達は暮雨のごとき流血の末にようやく希望の種子を芽吹かせたのだ。
 だが、それも全ては空虚な自己満足に過ぎなかった。そもそも両者は相争う謂れすらなかったのだ。それに気づけなかったのはひとえに両者の無寛容と無理解のせいだ。


 「誰か…… 誰かそのことを知る人間はいなかったのですか!」


 眩暈を覚えた私の瞳に『氷の剣士』の姿が映り、私は思わず絶叫する。


 「あなたなら! あなたならこの戦争を止められたのではないのですか!?」



 「そうだ。私は全てを知っていた。その上で破滅への旅路を看過したのだよ。」



 その声はいつもの凛とした張りを失い、両親とはぐれた子供のようにか弱く震えていた。
 私は自分を呪った。自分の暴言を呪った。自分の愚かさを呪った。
 彼女はさっき言ったじゃないか。


 (私が抱えている罪は君が考えているよりも恐らくずっと重い。)


 私は受け止めるつもりでいた。彼女の罪を。苦しみを。辛さを。
 だが、私はその重さに耐え切れず、あろうことか彼女を責めた。彼女の罪を詰ったのだ。


 「君が気に病むことはない。全ては私の犯した罪だ。」
 「しかし…… それでは……っ!」


 沸騰しそうなほどに熱い血液の奔流が全身を駆け巡り、私は唇を噛み締める。
 言いようのない後悔。そして憐憫。彼女の背負った業は余りにも重い。
 爪が食い込むほどに拳を握り締める私は、やがてあることに気づく。


 「まさか、それも『王』の意志だったのですか……? あなたに事態を静観させ、両者を戦争に導く……!」


 彼女は何も答えず、私から視線を外す。それは肯定の意思表示に他ならなかったが、同時に『王』の身を庇う行為でもあった。
 彼女は自らの罪だけに留まらず、『王』の罪まで抱え込もうとしているのか。『王』との決別を迎えようとする今でさえなお。
 彼女は余りにも純粋で、余りにも頑なだ。なぜ彼女はそこまでして『王』に義理立てしようとするのだ。
 一体、彼女と『王』の間には何があったのだ。