世界樹の迷宮・その40前編(B25F)

アルケミスト♂ ウィバの日記


 幾重にも折り重なった曲り角を抜けたオレ達の前に開かれた光景。
 それは通路と呼ぶには余りにも広大すぎて、オレには儀礼式典で貴族達が集まる宮殿の舞踏場にも見えた。


 「赤絨毯が敷いてあれば完璧だったな。」


 足元に蔓延る萎びた蔓草を見やってジャドが呟くと、口元に人差し指を立ててリーダーが注意を喚起する。ジャドは肩を竦めたあと、膝を折って上体を沈めると、目を瞑って床に耳を押し付ける。


 「1つ…… 2つ…… いや、3つ。4つ脚の足音と…… 砂袋を引きずるような重い音。例のワニ野郎だな。」


 廊下を徘徊する『敵対者』の気配をジャドは鋭敏に察知する。恐らくは王城を守る最後の番兵なのだろう。
 長い長い旅路を経て、汚れ、くたびれ、破れかけてさえいる厚手の羊皮紙の地図は、その中央部だけが吹き抜けのロビーのように空白を保っている。ならば、この未踏の世界こそ、『王』の玉座と、それに連なる最後の関門であることは疑いようがない。


 オレ達はカンテラの灯を落として、柱の影に身を隠す。『王』の居城を前にして無用な戦闘は極力避けたい。特に多大な消耗を強いられる『敵対者』が相手なら尚更だ。それには『敵対者』の警戒の目を掻い潜り、王城へ接近を果たす必要がある。


 「さて、ここで一つ問題がある。」
 「というと?」
 「不完全な地図はちり紙にも劣るってことだ。」


 冗談を言ってる場合か、とアリスベルガは斬撃を思わせる鋭い視線をジャドに叩き付ける。しかしジャドはまるで意に介した様子もなく、両手をひらひらと躍らせると、次の瞬間、舞踏場の中央に走り出した。


 制止する間もなく、ジャドの肢体が闇の中へ掻き消えていく。
 光源を落としていることもあるが、この廊下は広すぎて向かい側の壁の存在さえ不確かで判別がつき難い。それを廊下とひとえに断じることができるのは、夜目の効くジャドの断言と、ほぼ全面を塗り潰された地図への信頼に由来するのだが、それがなければ或いはこの廊下もモリビトの住処のような巨大な大広間とでも見間違えたかもしれない。




 程なくして上体を屈めてジャドが戻ってきた。


 「向こうの壁まで30歩ってとこだ。」
 「地図と合致するな。壁一枚分のスペースが残る。」


 オレは地図を開いてジャドの残した足跡を記す。
 浅く深呼吸しながら襟元を扇ぐジャドに向かってアリスベルガが声を潜めつつ説諭する。


 「危険を冒してまですることか!? 我々の置かれた状況を考えろ!」
 「平気平気。実際、見つかんなかっただろ?」


 しかしアリスベルガの諫言をどこ吹く風と受け流すジャドの態度は、アリスベルガの怒気に油を注ぐだけに過ぎなかった。
 オレは嘆息してジャドに助け舟を出すことにする。


 「ジャドを責めないでやってくれ。マッピングは重要な作業だ。」
 「それはわかるが……!」
 「道を書き記しただけの紙切れじゃないんだ。この地図は、オレ達の辿った冒険そのものなんだから。」





 律儀に巡回コースを往復する『敵対者』の目を掻い潜り、オレ達は通路の奥へ足を運ぶ。
 彼らが『王』の命令に実直に従うのと同様に、オレ達もまた冒険者のサガに従って通路を横切るようにジクザクに歩く。直線距離にするとほんの僅かな距離を、地図の作成と『敵対者』との駆け引きに費やしたせいで、通路の最奥に鎮座する大扉に気づくまでには相当の時間を要する羽目になった。
 舞踏場の突き当たりには、今までこの階層の各所に見受けられた扉とは全く異なる、金属製の巨大な両開きの扉があった。白銀にも似た、しかし比肩しがたい重量感を窺わせるその門扉を見上げると、侵入者を拒むために立ちはだかる巨人の番兵を想起させられ、オレは自然と息を呑む。
 視線を水平に戻すと目に映るのは錠の代わりに誂えられた機械仕掛けの箱。あの昇降機の電源と同様に、ある種の認証を経て扉を開閉する機構の一部なのだろう。
 昇降機の電源を叩き割ろうとしたジャドも、今回は力任せに粉砕してみようと提案してきたりはしない。学習したのか、それともレンから託された金属片のおかげだろうか。
 とは言え、この金属片がオレ達の目算通り、扉を開閉する用を果たさなかったとしたら。……その時は一度は床に着いた石器時代の風習が再び頭をもたげて自己主張を始めるかもしれない。
 金属片を取り出そうと懐にオレは手を忍ばせる。しかしその試みは突如として回廊を震わせる声によって遮られた。


 「その扉を開く前に、我が話を聞け。」


 怒気こそ篭っていないが、腹の底に氷塊を押し付けるような威圧感を伴う声音だった。
 金属質の床を規則的に叩く足音がイヤに明瞭に木霊する。一片の迷いもなく、その足音はオレ達に向かって近づいてくる。
 生物的な揺らぎを感じさせない機械的な歩様。明確で強靭な意志を抱き、しかしそれをつとに隠そうとする、吹き荒れる暴風を予感させてやまない、理性的過ぎる律動。
 吐き気にも似た恐怖が背筋を伝い、オレは思わず足音の主を顧みた。
 儀礼用の仰々しい肩当。オレ達はそのシルエットに見覚えがある。
 百獣の王を想起させる量感を伴う髭を蓄え、湖面に映る篝火のように、静けさを保ちながら雄々しく爆ぜる紅蓮の光を放つ双眸。


 執政院の長。そして世界樹の王。世界の全ての真実を知る男、ヴィズル!


 脂汗が背筋を伝う。
 迷宮の最奥にこの男が待ち構えているであろうことは予期していた。オレ達は彼に会うためにここに来たのだから。
 しかし、こんな形の遭遇は全く望んでいない。認めたくないが、しかし、これは…… 完全な不意打ちじゃないか!
 全く、自らご足労下さる黒幕なぞ寝物語にも聞いたことがない。この大扉の奥に安置された玉座にその重い装束ごと身を預けて、見下すような侮蔑の視線でも向けてくれればよかったのだ。そうすればこちらも気の効いた皮肉の一つも飛ばしてやれた。
 しかし現状はこれだ。全く心の準備ができていない。歴戦を気取る冒険者が不意打ちを受けるだなんてお笑い種にもならないが、気の緩みがあったことは否定のしようがない。


 「貴君らがここに辿り着いたという事実は……」


 『王』はオレ達と大扉の間に割って入ると、大扉を背にして話し出した。


 「モリビトや、レンとツスクルという熟練の冒険者を討ち果たしたことを示している。……見事な手腕だ。」

 「……あなたが彼女達を差し向けたのだと認めるのだな?」
 「全てはエトリアの為だ。」


 まるで悪びれることなく『王』は返答する。未だ体勢を立て直せていないオレは更なる追求の言葉を紡ごうとして声を詰まらせる。


 「貴君らはもう十分、この世界樹の迷宮を踏破した。」


 主導権を握り続ける『王』は異論を挟ませずに言を紡ぎ続ける。


 「今から一緒に街に戻ろう。貴君らも理解しただろう、この迷宮には巷間に流布された富も名誉も存在しない。しかし、街に帰ればすべて手にできるのだ。我が貴君らの望むものを与えよう。」


 その言葉にオレの心を満たす怒りが空転した。情けない話ではあるが、『王』のこの申し出にオレは蟲惑的な魅力を見出してしまったのである。
 とは言え、富や名誉に目が眩んだのではない。オレが欲しかったのは、体勢を立て直す時間だ。
 『王』の側面からの急襲を受け、オレ達は酷く混乱している。しかし体勢を崩したオレ達に対して『王』は追撃の手を加えることなく、倣岸な口振りではあるが協和の姿勢を示した。
 彼の言葉を真に受ける必要はない。向こうには向こうの思惑があり、こちらにはこちらの算段がある。このやり取りは、自分の手札を隠しながら、相手の捨てたカードで手筋を読み合うポーカーゲームに似ている。自分が不利だと思えば降りればいい。手札が揃った時に勝負に挑めばいい。それを『王』は許可している。無理な仕掛けで怪我を負うのは避けるべきだ。


 だが、心奥に根差す理性の訴えに耳を傾けつつも、オレの感情はそれを断固として認めたがらなかった。
 なぜだ? このまま強攻策に打って出るのは極めて危険だ。恐れを知らない若い冒険者が『全てを狩る影』に苦杯を舐めさせられるくらいにそれは確実な未来図なのだ。なのになぜ、オレは『王』の言を飲み込むことができないんだ?


 「どうしたのかね、ティークラブの諸君。」


 『王』の耳障りな声が…… いや、違う。
 『王』の声が耳障りに聞こえたからこそオレにはわかった。


 プライドなんだ。オレ達の冒険者としてのプライド。オレ達がこの冒険で築き上げた自信と足跡が、『王』の言葉を否定したがっている。無理矢理に冒険を終わらせようとする慈悲深くも高慢な提案を跳ね除けたがってる。


 (貴君らはもう十分、この世界樹の迷宮を踏破した。)


 勝手に決め付けるなよ! これだけありがたくも嬉しくもないお墨付きは珍しい。オレ達の冒険はまだ終わっていない。なのに勝手に終幕を告げられて、それで納得できるやつがいるものか。
 ここで退ける人間は賢明なのだろう。だが、オレ達は退けない。オレ達は真実だけを求めてここまでやってきたんだ。
 様々な苦難を乗り越えて。様々な人の思いを背負って。
 そんな自分の足取りを無にするような真似はできない。自分を裏切るような真似なんてできるものか。


 「……一つだけ、欲しいものがあります。」
 「何かね。貴君らの働きに見合うものを用意できるといいのだが。」


 仲間達から驚愕の視線が集う。その視線を背中で受け止めながら、オレは唾を嚥下して次の言葉を探す。


 「ほんの些細な…… 極めて卑近で安易なものです。恐らく閣下のお手間を取らせることはありません。」
 「曉勇に似合わず無欲なことだ。言ってみるがいい。」


 多分、オレの口元は引き攣っていただろう。嘲弄と恐怖と、両方で。だからオレは心の中に蠢く脅惰の心を引っぺがして、ありったけの勇気を振り絞って口を開いたのだ。


 「オレが欲しいのは…… この迷宮の地図です。」
 「地図、だと……? それは一体?」
 「完璧な地図。この迷宮の一切を書き記した地図が欲しいのです。」


 こちらの意図を汲みかねているのだろう、『王』の眉が僅かに歪んだ。


 「それが冒険者の武勲なのか? ならば職人に命じて世に稀なる逸品を作らせよう。年若い斑の牝牛から採った皮紙を7色の絵具で塗り分け、縁は金糸と金粉で飾り立て、裏面に真珠を鏤めた……」
 「いいえ、それには及びません。」
 「……ならば、貴君は一体何を望んでいるのだ?」
 「地図はここにあります。そして……」


 微かに苛立たしさを帯びた『王』の声を受け流すと、オレは彼の目を見据えて言い放った。


 「その扉の奥を書き記すことで、この地図は完成するのです。」


 『王』の表情が凍った。元からどこか超人的な、表出する感情を全て意志の力で封じ込めるような男ではあったが、その男がある意味で人間らしい血の通った感情の一片を垣間見せたのだ。


 「この扉の奥には何もない。空虚なだけの伽藍堂だ。」
 「ならばそれを自らの目で確かめます。」
 「その必要はない。」
 「いいえ、それを確かめなければ地図は完成しません。」


 刹那、憎悪を剥き出しにした『王』の眼閃がオレを貫き、危うくオレは膝が折れかけた。いつの間にか回廊の空気は極限にまで張り詰め、暴発寸前の危うさを抱えている。
 だが、ここで退くワケには行かない。なぜかはわからないが、『王』はこの扉の奥にオレ達を立ち入らせまいとしている。自ら姿を晒し、甘言を弄し、あらゆる手練手管を介してオレ達をこの迷宮から追い出そうとしている。
 一体、それはなぜだ? そうまでしてなぜオレ達を押し止めようとするんだ? その答えは恐らくこの扉の奥に眠っている。この扉の奥には彼にとって隠し通さねばならない秘密が間違いなく存在するのだ。


 「どうあっても我意を押し通すつもりか。」
 「それが冒険者の矜持です。」


 数秒の間、オレと『王』は互いに視線を交錯させ、相手の出方を窺っていた。引くならばよし、言を曲げぬならばその時は……
 脂汗が額に滲み、それを悟られまいとオレは歯を食いしばる。
 隙を見せれば、この男は奇術じみた言動で篭絡にかかる。奇襲から始まった心理的劣勢をようやく五分にまで引き戻したのに、ここで再び主導権を奪われるワケにはいかない。例え虚勢にすぎなくてもこの姿勢を崩さずに押し返さなければ、そもそもこの男と渡り合うことなど不可能だ。
 息詰まるほどの緊張感のせいで羽虫が飛び回るような耳鳴りが始まる。心臓が不規則に脈打ち、酸素の不足した脳は視覚を正しく受信できない。暗転しかける視界の隅で『王』が視線を外した瞬間、オレは心理的に窒息死しかけていた。


 「この迷宮の真相、我以外には誰も知らぬ真実を知りたいならば…… この扉をくぐり来るがいい。」


 妥協案を提示したのは万能の知恵者だった。しかし、これは彼が膝を折ったのではない。駄々を捏ねる子供を突き放しただけに過ぎない。


 「しかし、それには代償がいる。命を失ってもいいという決意が無いなら止めておけ。」


 結局のところオレ達はまたしても判断を求められている。命と感情を天秤に掛けて、自分の心の内に眠る惰弱さと死闘を繰り広げなければならない。


 『王』はオレ達の前に現れたときと同じ、全く淀みのない歩調で扉へと歩を進める。そして機械の箱に手を翳すと音もなく軽やかに扉が左右に開け放たれる。


 「来るならば覚悟せよ。貴君らの命とひきかえに…… この迷宮の本当の姿を教えよう。」


 そう言い残して『王』は扉の奥の闇に消えた。再び扉は地面を滑るように固く閉ざされ、彼我の空間を隔絶する。
 『王』の姿が視界から消えて、体中から力が抜ける。厳冬の雪原に放り出された子猫のように、ただ震えが止まらない。


 「大役でしたね、ウィバ。」


 リーダーの一声でオレの心を蝕みつつあった暗闇が幾分か影を潜める。不思議な話だが、なぜかリーダーの声には人の心を安んじる力がある。その声は美声と呼ぶには余りに抑揚を欠いていて酷いのだが、或いは常に平静さを失わないその口調が、錯乱する心性を平常に引き戻してくれるのかもしれない。


 「命か、それとも真実か。厳しい選択を迫られましたね。」
 「他人事みたいに言うなよな。オレ達は当事者なんだぜ。」


 狼狽という言葉を知らないリーダーの姿は、感情豊かなジャドにとっては愚鈍にも映るのだろう。まぁ、強ち間違ってもいないが。


 「いずれにせよ、前に進むしか選択肢はあるまい。」
 「できればもう少し穏健な解決策を見出したかったのですけれど。」


 迷いのない口調でアリスベルガが断じるが、ルーノの相槌にはやや精彩さが欠ける。
 そうだ、できることならば、干戈を交えることなく彼にはこの迷宮の真実を語ってもらいたかった。無知ゆえの罪と罰をオレ達はこの冒険で何度も味わってきたのだから。真実を知り、迷宮を俯瞰する視界を得て、その上でオレ達は是非を判じたかった。


 「しかし、彼の口を割るには、彼の意を叶えるしかないようです。」
 「まったく、どこまでも居丈高なオッサンだぜ。」


 ふと気づいたのだが、不思議なことに誰しも即時撤退を唱えようとはしなかった。半ば消極的で愚痴も少なからず飛び交っているのだが、『王』との戦いは既定の路線として決定しつつある。
 冒険者はいつだって生き延びることを考える。あのレンとツスクルとの戦いでさえ、オレ達は逃げ延びる道を第一に考えていたのだ。
 それは卑怯な振る舞いではない。臆病さは得てして賢明さに繋がることをオレ達は知っている。それにも関わらず、なぜ彼らはこの無謀な挑戦にこうまで乗り気なのだろうか。


 「冒険者の矜持、ですよ。」
 「もう後には退けないだろうが。あれだけの啖呵を切っちまったらよ。」


 その言葉でオレはようやく得心が行った。
 面子を守る、というのとは少々異なるが、彼らはオレの言葉を尊重しようとしてくれているのだろう。咄嗟に口走ってしまった感情の発露にしか過ぎない、子供の口喧嘩のようなあの言葉を。


 「済まない。出過ぎた真似をしてしまって。」
 「謝る必要はない。お前は私達の意志を代弁してくれたのだ。」
 「結局全員ムカついてたってことさ。お前が言ってなきゃオレが言ってたぜ。」


 だが、それでも彼らの判断に対してある種の強迫観念を帯びさせてしまった事実は否定し得ない。オレはもっと柔軟に、そして理知的に判断を下すべきじゃなかったのだろうか。こんな一時の激情に引きずられて、命を賭けるような大事の判断を誤ってしまったら、それこそオレは彼らに申し訳がつかない。


 「ウィバ、気に病む余裕があるのなら、前を見ましょう。過去を顧みても得られるのは後悔だけです。」
 「後悔を全て決意に変えるんだ。それが今のお前に果たせる最善の誠意じゃないか?」


 確かに二人の言うとおりだ。オレの言葉で彼らを扇動してしまったのだとしたら、何よりオレが先頭に立って彼らを守らなければならない。
 今、オレがしなければならないのはオレを信頼してくれた仲間を助けること。仲間と共に『王』の横面をひっぱたくことだ。


 「みんな、いいんだな?」


 アリスベルガ。
 ルーノ。
 ジャド。
 リーダー。
 皆が一斉に頷く。ならばもう迷いはない。


 オレは懐から金属片を取り出した。水晶の糸が縦横無尽に走り回る裏面はまるで世界樹の葉脈のようだ。
 金属片を掲げるとオレは先ほど『王』がして見せたように機械の箱に金属片を翳す。程なくして大扉が滑るように左右に開き、そしてオレ達はこの迷宮最後の玄室に足を踏み入れた。