世界樹の迷宮・その41前編(B25F)

パラディン♀ アリスベルガの日記


 小石を投じられた水鳥の群れが湖面を蹴って一斉に羽ばたくように、先程までは床面だった鈍色の板材はその全てが砂礫と化して宙空を舞った。一面に漂う土煙の中から今や巨大な槌と化した棍状の触手がゆらりと顔を覗かせ、新たな獲物を探す蛇のように再び頭を擡げ始める。


 「下だ!」


 誰かの放った叫び声に私は反射的に地面を蹴り、後方へと飛びずさる。次の瞬間、私の立っていた床面は地下から突如として突き出た幾数もの槍状の樹根によって、危険を感じたハリネズミにも似た異様な光景に様変わりしていた。
 私は盾を左手に持ち替え抜刀すると、その勢いを利して目の前に林立する槍の木立を一薙ぎする。青色の残光が走り、槍の柄を全て中ほどから切断する。
 重力に引かれて地面に落ちた樹根の穂先は、陸上に上げられたトビウオのように身体をよじって激しく抵抗を続けたが、やがて新雪のように融け消え、地面に薄緑の染みを作った。
 穂先を失った槍の林は引っ張られるようにして床面へと吸い込まれてゆき、チーズのような穴だらけの床面だけが残されている。


 私は周囲を見回し、仲間の安全を確認する。そして再び視線を前方へ戻し、唾を飲む。


 この部屋は、危険だ。


 『王』がこの部屋に私達を招き寄せたのは、それ自体が彼の策謀の一つだったのだろう。
 大地と接続し、生命を循環すべく張り巡らされた地下茎の数々が、この部屋を縦横無尽に取り囲んでいる。壁という壁、床という床、天井という天井、私達が拠り所とする空間の全ては『王』の所管する領土に他ならないのだ。
 私達は前方にそびえるあの大樹の動きに細心の注意を払いつつ、足元から、側面から、後方から、天井から、四方八方から襲い来る世界樹の細根の動きにも対応しなければならない。私達は取り囲まれているのだ。『王』の四肢に。この世界樹の迷宮に!


 「どうすればいい!?」


 ほどばしる雷光の鞭が天井を突き破って襲来する触手の群れを焼き焦がし、端から炭へと転化させる。ウィバは持てる限りの力を傾けて私達を危地から守っていたが、こんな戦い方が長続きするとは到底思えなかった。
 敵の戦力は未だ測り難くなお健在だ。終わりの見えない戦いほど疲労を強いられるものはない。


 「一点突破する!」


 ならば肉体的にも精神的にも余力のあるうちに決着を強いるしかない。
 私達は包囲されている。外線作戦の基本は、相互の通信と兵力の連動の保持にあり、高度な機動と錬度とが要求される。今回の場合、敵は複合意志の集合体ではなく、一括した命令系統の元に完璧な戦術機動を行える最強の兵団だ。ゆえに分進合撃のタイムラグを衝き、各個撃破に持ち込んで個々の連絡を断ち切ることは難しい。
 しかし逆に言えば、敵の後方連絡線たる策源は『王』ただ一つしかなく、その一点さえ撃破せしめればいかな強大な戦力と言えども一瞬で無力化することができるハズだ。『王』は唯一無二の将軍だ。副官はいない。戦理的にはありえない指揮系統こそがこの迷宮の守護者の唯一の弱点だ。


 「接敵し、抑留する! 戦域を狭め、戦端を縮め、戦場を限定する! 敵の運動を阻み、ゼロ距離戦に持ち込むぞ!」
 「わかった!」


 間断なく繰り広げられる四方からの攻撃を払い除けながら、私達はタイミングを見計らって突撃を敢行する。前方からまるで流星群のように降り注ぐ触手の大群を私は刀で払い、盾で受け止め、鎧で弾く。決して抜かせはしない。追随する仲間達は、私が守る。


 『王』の大樹に駆け寄ろうとした私達の意図を察したのか、眼前の床面が不自然に隆起すると、大理石に似た床材を吹き飛ばして幾数もの樹根が伸び上がり、やがて重なり合い、捻り合い、巨大な壁を形成した。


 「足止めする気か!」


 私は足取りを緩めない。刀を大きく振り被って樹根の壁に袈裟斬りに叩きつける。しかし結集した世界樹の根茎は鋼鉄の門扉のような頑強さで私の刀を弾き返し、反動で私は大きくよろめいた。


 「ここは私達に任せてください!」


 リーダーが朗々と呪歌を歌い上げるとルーノの総身に英雄の力が宿る。私に向かってルーノは一つ頷いてみせると跳躍とともに渾身の力を込めて杖を世界樹の壁に向かって振り下ろす。


 「斬り払えないなら打ち壊せばいいんです!」


 まるで破城槌が城砦の門扉を叩き壊すように、ルーノの杖は世界樹の壁を一瞬で粉砕した。呪歌の力を借りているとは言え、彼女の膂力は凄まじい。病弱だった彼女の過去は果たして私の記憶違いだったのだろうか。


 「アリス、あなたが私を守ってくれたからこそ、私は強くなれたのですよ。」


 瓦礫と化した樹壁の残骸を踏み越えると、私達と世界樹の大樹の間にはもはや遮るものは何もなかった。
 リーダーが牽制の斉射を本体に向かって撃ち放つと、次いでジャドが俊敏な身のこなしで私を追い抜き、群がる触手を一纏まりに縛り上げる。
 壁から床から這い出る触手の遊撃はいつの間にか影を潜めている。余りに広範に樹根を広げすぎた結果、幹の周辺はむしろ防御が薄くなっているのだろう。或いは同士討ちで幹を傷つけるのを恐れているのかもしれない。いずれにせよ接敵した甲斐はあったようだ。
 しかし一方で『王』の大樹本体から繰り出される攻撃の数々は更に激しさを増しつつあった。前進する私達の勢いを阻み、削ぎ殺し、押し返そうとするかのように、矢継ぎ早に第2陣、第3陣が繰り出され、私達はその攻撃を受け止め、跳ね返し、寸身で避け、なおも前進を続ける。
 私達は必死だった。そして向こうもそれは同様なのだろう。この膠着した戦線を突破した方が瞬間的な暴風を味方につけ、戦局を支配する。局地戦とは心理戦だ。勢いに乗じた者が勝利を収めることができる。
 だが逆に心がへし折れてしまえばもはや劣勢を挽回する余地はない。戦略的に撤退を許す下地があれば話は別だが、私達も、そして『王』にも、互いにそんな余裕はない。殲滅するかされるか。生き延びる為には相手を駆逐するより道はない。


 そして私達はようやく世界樹の麓に辿り着いた。上空を仰げばそこには躍動する若枝と青々とした樹葉の重なりなどは一切なく、ただ禍々しく毒々しい槍状の触手を無数に蠢かせる、奇怪で醜悪な樹霊の姿があるだけだ。

 私は幹の中ほど、人間で言えば肩口に当たる位置に周期的に脈動する血瘤のようなものを発見した。よくよく観察してみると、私達に向かって押し寄せる触手の動きはあの血瘤の動悸と同期しており、触手の動きを制動する副神経のような役割を果たしているようにも見える。


 「『封じ』を仕掛ける! うまく効くことを祈ってくれ!」


 ジャドは一回鞭をしならせると、左手に短刀を逆手に構えて跳躍する。
 世界樹の幹から張り出された下枝にジャドは飛び乗ると、それを足場にして更に上の枝条に飛び移る。
 体を這い上がる羽虫を阻止すべく世界樹の幹は枝葉を揺らしてジャドを振り落とそうと試みるが、その意図を察知したジャドは鞭を上方の梢に引っ掛けると体を宙に投げ出して、振り子運動の要領で新たな枝に次々と飛び移っていく。


 「まるでサルだな。」


 呆れるように呟いたウィバはジャドの死角から忍び寄る一本の触手に向かって雷撃を放つ。標的を捉えるまであと一歩と迫った触手は使命を果たせず瞬時に炭化し、粉微塵になって地表へと散っていった。
 そうこうしているうちにジャドは目標の血瘤まで辿り着き、腰に結わえた皮袋の封を開いて、その中に短刀を突き入れる。皮袋の中には液状の神経毒が満たされており、これを皮膚吸収した生物は総じて四肢や神経に一時的な異常を来たす。
 狩人達が得意とする『封じ』の技術は、鞭や縄による物理的な拘束と、神経毒による薬学的な拘束の両面からアプローチを行う。今回の相手は体躯が巨大なこともあり、物理的な拘束が難しいとみたジャドは直接体内に神経毒を打ち込むことで、この大樹の動きを封じようと試みたのだ。


 「しかし、果たして『王』にまで『封じ』が効くものでしょうか。」
 「『蠢く毒樹』と同じようなものだ。試す価値はある。」


 ジャドは皮袋から手を引き抜くと、剣先から藍色の雫の滴る短刀を血瘤に向かって打ち込んだ。
 途端、血瘤は元より、それに連なる全ての触手がまるで瘧にかかったかのように激しく痙攣し、鎖を引き千切った狂犬のように縦横無尽に暴れまわる。壁に、床に、天井に、部屋と言う空間全てを横断し、縦走し、踊り狂う。
 総身を這い回る異常信号からなんとか自己を取り戻そうと世界樹は必死で制動を試みているようだったが、その甲斐なく天井は崩れ落ち、床は掘り起こされ、壁面は吹き飛び続けている。まるで暴風のような荒々しさだ。


 「よし、これで向こうにもう余力はねぇ! あとは心臓をぶち抜くだけだ!」


 世界樹の幹から滑り落ちるようにして地面に降り立ったジャドが白い歯を覗かせる。防衛戦力を無力化した今、敵の中枢たる箇所を打ち崩すことによって私達の勝利は確定する。
 そして恐らく敵の心臓部たる世界樹の中枢は私達の眼前にある。


 根元に程近い蓮の花弁のような外殻に取り囲まれた球根状の組織。二重三重に取り囲まれた樹皮の最奥に恐らくこの世界樹の心臓はある。
 私が刀を振り下ろして外殻を両断すると、次いでリーダーが矢箭を放ち、厚い樹皮に罅割れを入れる。そこへルーノが杖での殴打を加え、樹皮を叩き割ると、そこには果肉のような肉厚のゼリー状の防護膜があり、その最奥にはうっすらと脈動を続ける心臓部が垣間見えた。


 世界樹の心臓。それはまさに私達人間と同様の生物的な揺らめきを備えた器官だった。


 「下がってろ! 防護膜を打ち破る!」


 ウィバは右腕に装着した鋼鉄の篭手を頭上に掲げると、その指一本一本までを真っ直ぐに伸ばしきる。力強く開かれた手のひらの上に、篭手から噴出する粒子の欠片が明滅し、弾けるような音を立てて集まっていく。
 球状に集められた粒子の塊は今や巨大な光の渦に転じていた。漆黒の篭手に添えられたウィバの左手は一時も休まることなく練成陣を描き続け、噴出する粒子を吸い込み続けた光の渦は今までにない巨大な光の塊へと膨張を続けている。
 林檎のような光の渦が、西瓜ほどに膨れ上がり、やがて酒樽の大きさにまで達したとき、ウィバの左手が動きを止めた。彼自身が制御できる限界まで達したのだ。
 そしてウィバはゆっくりと手のひらを水平に下ろし、それに追随して光の渦も高度を下げる。ウィバの右手と光の渦。その二つを結んだ先にあるのは、世界樹の心臓ただ一つ。満身の力を込めてウィバは右手を突き出す。


 「世界樹の王! 呪われた王! 数奇な運命と永劫の魂に縛られた哀れな半生を今消し飛ばしてやる!」


 そして光は放たれた。轟音を伴って直進する光の渦は、世界樹の心臓が身に纏う僅かな外殻を巻き込み、粉砕し、弾き飛ばして、防護膜に到達する。脂が焦げ付くような音と匂いを発しながら光の渦は防護膜を蒸発させ、消散させ、削り取っていく。
 巨大な水槽のように縦深陣を敷く薄緑の防護膜は、光の渦を吸収し、拡散させ、漸減し続けるが、その勢いを完全に殺すことは出来ない。しかし、心臓に辿り着く直前に至り、光の渦と防護膜の勢力は拮抗した。熾烈な抵抗に対面した光の渦は不安定な唸りを響かせ、球状を保つことさえ今では覚束なくなっている。


 「ダメだ、突破できない!」
 「いや、道は開かれたのだ! ならば、あとは押し切るのみ!」


 私は弓を引き絞るように刀を構えると、半身の体勢から刀を突き出し、全体重を乗せて吶喊した。
 四方からの重圧に耐えかねた光球が爆散し、世界樹の心臓に至る筒状の空間を形作った。薄緑の防護膜は原生生物のように細かく激しく蠕動し、再び彼我の合間に隔壁を作ろうと集結を始めるが、それに構わず、私の刀は残された防護膜を貫いた。


 『王』の断末魔の叫びが地震のような律動となって私の手元に伝わる。その余りの激しさに私は刀を握る手を振り解かれそうになったが、私は渾身の力で刀を握り直すと、更に刀を前へ突き出す。


 「息絶えろ、世界樹の王! お前の生きる大地は既にない! お前のいるべき場所へ還れ!」