世界樹の迷宮・その43(B25Fクリア)

 バード♂ エバンスの日記


 扉を開けると獣脂の焦げる独特の匂いが鼻腔を刺激する。それと同時に止むことを知らない荒くれ達の喧騒が、冬の海原の荒れ狂う高波のように押し寄せてきた。
 私は薄暗い店内に足を踏み入れ、壁掛けの燭台の光にも見放された奥の一角を目指す。テーブルを横切る度に、顔馴染の冒険者が私を呼び止め、酒壜をちらつかせるのだが、私はその都度断りを入れて、代わりに次回の埋め合わせを申し出る。


 「申し訳ないのですが、今日は先約がありましてね。」


 金鹿の酒場の奥隅、粘つくような暗闇に紛れるようにしてウィバはいた。
 彼は私の来訪に気づくとエールの満たされた酒杯を軽く掲げて会釈する。私は頷くと、彼の真正面の椅子に腰掛けて手荷物を足元へ下ろした。


 ウィバは懐からクリスタルの小壜を取り出す。イルカをモチーフにとったその小壜は、日頃から清貧をよしとする彼の持ち物にしては珍しい芸術性を備えた工芸品だったが、当の本人がその価値について頓着している様子を私はとんと思い出すことができない。
 貴人の愛用する香水にも似たその小壜をウィバは無造作に傾け、エールの満たされた杯に鈍色の雫を一滴垂らした。


 「どうだ?」
 「いや、私は結構です。」


 私は苦笑を浮かべて、店員の運んできたエールを手にとる。ウィバは、そうか、とだけ呟いてちびちびとエールを啜り始めた。
 ウィバの言によると、あの小壜には『水銀』が満たされているらしい。彼の修める錬金術の法理によると、万物は『硫黄』と『水銀』の結合によって実存していて、その調和を司る御業こそ錬金術の奥義なのだという。
 彼の理屈によると人体は能動原理である『硫黄』に勝ちすぎているため、受動原理である『水銀』を摂取することで、錬金術的な『完全なる合一』に近づくのだそうだ。1日2回、一滴の『水銀』を摂取することで、体液の変調から来る種々の病を退け、健康で若々しい肉体を維持することができるらしい。


 ……まぁ、色々と疑問の残る話ではある。
 『水銀』が健康にいいのは事実なのだろうか?
 むしろ害毒を及ぼすのではないだろうか?
 小壜に満たされているのは本当に『水銀』なのだろうか?
 そもそもこれは錬金術師お得意の比喩ではないのだろうか?


 無学な私にはその疑問を解決する手段がない。まぁ、差し迫って回答が必要なシロモノでもないのだが。
 いずれにせよ確かなことは、錬金術師は常に『完全なる合一』を目指して己の全知全能を傾ける人種だということである。……そう、自らの体を実験台にしてでもだ。


 「世界樹の王も『水銀』を飲んでいたんでしょうかね。」


 『完全なる合一』の一つの形、不老不死の領域に辿り着いた男のことをふと思い出し、私はなんとなしに呟いたのだが、意外にもウィバは縄張りに踏み込まれた猫のように激しい反応を見せた。


 「……くそっ!」


 ウィバは酒杯をテーブルに叩きつける。頬が赤らんでいるのは何も酒精のせいだけではない。彼の顔は苦渋の陰影に彩られ、鬱屈した感情の昂ぶりがぎらつく瞳から漏れ出していた。


 「わかってるさ! ……こんなもの、何の役にも立たないってことは!」


 世界樹の王との戦いと、それに連なる真相の解明は、私達の心理に健やかならぬ影響を及ぼした。
 自らの使命を拒否した衛生官。今も病床に横たわる騎士。そしてこの年若い錬金術師。
 何よりこの知識欲と探究心に満ちた錬金術師にとって、知られざる世界の真実は、彼の生き方そのものを転変させかねない衝撃に満ちていた。
 私は彼が受けた衝撃を、読み進めていた小説の顛末を悪戯に明かされてしまったようなものだと解釈している。
 しかし、学徒とは真実への到達を阻む種々の困難を乗り越えることにまず喜びを見出す人種であり、何より彼はプライドの高い男だ。奇術の種本だけを与えられて、それで納得するような物分りのいい人物ではない。


 「……不老不死。あの男は錬金術の求める極地にいともあっさりと到達しやがったんだ。」


 酒気と毒気を同時に吐き出しつつ、ウィバは改めて酒杯を呷る。
 『王』を弁護するワケではないが、『王』の披瀝した科学の力は、私達が想像できないほどの知識の蓄積と技術の練磨によって構築された論理の結晶であって、大量の鶏の卵を暖めていたらその中の一つが孵化したかのような、そんな偶然の産物ではない。
 ウィバにしても私にしても、第5層を埋め尽くす様々な科学の落し子を目の当たりにして、まずは驚愕を通り越して呆然とした。それが極めて精緻な論理に従って稼動しているのだとしても、容易には信じられなかったのだ。
 私と彼に相違があるとすれば、それはやはり彼は探求者だったということだ。私は違う。私は目に映ったものを、そんなものだと片付けてしまう。私には彼のような探究心はない。
 そして王の居城を満たす数多の機構が、科学という名の高次の技術だと理解できたとき、彼は自らの生涯を賭して探求し続けた錬金術がいかに稚拙で低劣な代物であるかを同時に悟ってしまったのだろう。
 至上の英知と信じて止まなかった錬金術の堕落。それは彼にとって天地の崩壊にも匹敵する一大事だったのだ。


 「下らない話だ。オレだけじゃない。父親も、祖父も、曽祖父も…… みんなママゴトに興じてただけだ。いや、それだけじゃない。この世界の全ての錬金術師が予定調和を目指して血道を上げているのさ。なんて馬鹿げた、そして惨めな人生なんだろうか。」


 空ろな笑いを漏らしてウィバは宙を仰ぐ。


 「変な話だがね、リーダー。今のオレには『王』の気持ちが分かる気がするよ。」
 「どういうことですか?」


 ウィバは意識的なのか、無意識的なのか、ゆらゆらと頭を揺らしながら空になった酒杯に手酌でエールを注ぐ。


 「同じなのさ。自らの人生も、肉親も、仲間も、全てを費やして挑んだあの男の『世界樹計画』は、ほんの少しだけ頭の回る他の科学者のせいで、まったくの無意味な代物に堕されちまった。……モリビトも、大気を浄化する世界樹も、もう世界には必要のないゴミでしかないんだ。学徒にとってこれ以上の屈辱があるものか。」


 学問を志す者にとって、知識を追求するが故の矜持というのは確かに存在するのだろう。規模の程度こそ違え、ウィバも、『王』も、自らの人生を賭けた知識の探求に敗れ、そして悲観したのだろうか。


 「だから『王』がモリビトの殲滅…… いや、破棄を決意したとしても、それは極めて自然な情動なんだ。そんなものを放置しといて、知者としての矜持が保てると思うかい?」
 「昔書いた疎かな論文を破り捨てたくなるようなものですか?」
 「その通りだ! ……迷宮の深層を覗かせまいとしたのも同じ理由だよ。何せ迷宮の奥底には『王』の愚かさを示す証拠がこれでもかとばかりに詰まっている。そんなもの、誰の目にも触れさせたくない。自分だけの秘密にしておきたいに決まっている。」


 酒精にもつれるウィバの口上をまとめると、『王』の行動の全ては、科学者としての失敗を闇に葬り、虚栄を保つための事後工作だということらしい。確かにそれは『王』の一貫しない種々の行動の理由を根拠付ける視点のようにも思える。しかし、あまりにそれでは……


 「低俗な話だと思うさ。『王』は自分で『人間を捨てた』と言っていた。だけど、オレに言わせりゃそりゃ怪しいものだね。あの男はどこまでも人間を捨てられなかった。幼稚な感情を捨てられなかった。それが全ての発端だよ。この世界樹の迷宮が生まれた理由だよ。」


 恋人と猫の死体を土壁に塗り込めるように、『王』は旧世界を世界樹の迷宮で封じたのだろうか。自らの無能と失策を余人の目から隠すために。


 「でも、だとしたら『王』はなぜ冒険者をエトリアに呼び寄せたのですか。自分の過去を隠したいのなら、迷宮に誰も近寄らせないように手を打つはずでしょう。」
 「……さぁね。そこまではオレにもわからない。まぁ、科学の光を失った野蛮な人間に僅かな施しでも与える腹積もりだったのかもしれないな。」


 ウィバは嘆息して酒杯をテーブルに置いた。


 「『王』は矛盾をいくつも抱えている。でも、それが『王』をして人間たらしめている最大の証左だとオレは思う。『王』は自称するような神でも超越者でもない。予期せぬ天変に人生を狂わされた哀れな科学者さ。」


 そう、彼は科学者だった。知恵者だった。しかし、だからこそ私は疑問に思うのだ。
 果たして彼ら科学者はそれほどまでに簡単に絶望してしまうものなのだろうか。
 自己を卑下してしまうものなのだろうか。
 誰よりも遠くを見通せるが故に、苦悩の十字架を背負ってしまうのだろうか。


 いや、例え酷薄な現実に直面したとしても、彼らはそれを乗り越える意志と力とを持ち合わせている。私はそう思っている。そう思いたい。
 ……まぁ、それは私の眼前で、大して強くもない酒に呑まれ、慣れない自嘲と哄笑を続ける友人から目を逸らしたいがゆえの願望に過ぎないのかもしれないのだが。


 「……ウィバ、私は思うのですよ。『王』が今日まで生き長らえたのは、彼自身が未来に希望を持っていたからだと。自らの道を正すことができない彼は、それでも人類の明日に希望を見出したのだと。」
 「それは違うよ。『王』はただ保身に走っただけだ。捨てることのできない過去の記憶を後生懐に抱えて、在りし日の追憶に溺れていただけだ。」


 第5層には劣化し、風化しているとは言え未だ多くの遺跡群が眠っている。『王』は隠居した家長が軒から庭園を眺めるように、心穏やかに遺跡群を見下ろしていたのだろうか。
 いや、それは違う。『王』が望んだのはそんなことではないはずだ。そう、なぜならば……


 「ウィバ、『王』は見たのですよ。科学の行き着く先に待つ破滅の光景を。」


 地上を覆い尽くす災禍。抗することも逃れることもできない死神のパレード。大地は引き裂け、大海が唸りを上げ、太陽は暗雲に飲み込まれる。自然の咆哮に人々は恐怖し、竦み上がり、引き倒され、末期の叫び声を上げる。隣人が倒れ行く様をただただ見届けることしかできないそこは、まさにこの世の地獄だ。


 「そして彼が科学者であるならば、彼の採るべき道は自ずと定まります。」
 「ああ、『世界樹の種子』を生み出し、大地の安定を図った。」
 「ええ、その通りです。そして……」


 『王』は人類の存続を願ったのだ。ならば……


 「『王』は再び科学が人の手によって濫用されないように願ったのではないでしょうか。」


 それこそが科学者としての『王』の真なる願いだったのではないかと私は思う。
 第5層に眠る数多くの遺失された知識は、扱い方を損ねればこの大地さえ滅ぼす脅威を内に秘めている。
 科学に精通した前時代の人々でさえ御し方を誤ったこの技術が、未だ霊媒と自然科学さえ分化できない私たちの手に渡ったとして、果たして本来の意図通りに活用できるものなのだろうか? いや、その可能性は極めて低いと言わざるを得ない。


 「だから『王』は第5層に蓋をしたというのか? 悲劇を繰り返さないために?」
 「『王』が科学者としての理性を備えていれば、の話ですがね。」


 数千年の時を跨いでなお『王』に科学者としての倫理が残っていたのか、私にはわからない。それを確かめる手段は永遠に失われてしまった。
 しかし、『王』は歪な形ではあれ、人類の存続と繁栄とを願った。ならば、人類が再び破滅を呼び起こそうとする軽挙を決して許しはすまい。いかなる手段を以ってしても人々を第5層へ近づけさせまいとするだろう。


 「その為にモリビトやレンやツスクルを使い捨てにしたと? 大した博愛精神だな。」
 「ええ、『王』の行為は到底肯定できるものではありません。その目的がどうあれ、彼は多くの人々に不幸を強いました。しかし彼の真意を図ることなく悪意のみを断罪するのは短慮に過ぎるとも私は思うのです。」


 意識的にせよ、無意識的にせよ、私達は『王』の操り糸に導かれてここにいる。そう、このエトリアの街さえも、元はと言えば『王』が望んだがゆえに生まれた社会なのだ。
 世界の導き手たる『王』はもはやこの世にはいない。その影響は極めて鈍い足どりではあるが、あらゆる場面において如実に現れつつある。
 私達は乗り手を失った馬のようなものだ。
 私達は自由を得た。その代わりに私達を先導してくれる者はもういない。生きるためには自分の足で、自分の判断で歩いていくしかないのだ。その材料としてかつての乗り手の意志を参考にするのは決して悪い話ではない。


 「ウィバ、あなたは錬金術を捨てられますか?」


 ウィバは苦笑する。


 「難しい話だな。錬金術が子供騙しの学問とは言え、オレはそれ以外の道を知らないし、違う道を辿ることもできない。これ以上の探求が自慰に過ぎないとしても、結局オレはそれしかできないんだろうな。」
 「『王』も同じですよ。世界樹計画の終焉を知りつつ、それでも彼は観察者としてこの大地に留まり続けたのです。」


 ウィバは押し黙り、揺れる酒杯の水面をじっと注視していた。


 「……まぁ、結局は推論です。何が正しいかなんて私にはわかりません。それを確かめる術はもうありませんしね。」


 私は苦笑しつつ半ば強引に会話を打ち切った。これ以上の論議を重ねても話は平行線を辿るだけだろうし、そもそもウィバを論破することが私の目的でもない。
 私はいつも通りの彼を再確認したかっただけなのだ。だから私の目的はもう達成されているといってもいい。彼の言葉。そう、錬金術を捨てられないと言い切った彼の言葉で。
 私は乾いた喉を潤すために酒杯を手に取り、すっかりぬるくなったエールを口に含んだ。


 「……『王』は学徒だったんだ。そして学問を志す人間には最後まで捨てられないものがある。」


 ウィバがポツリと呟く。私は目線を彼に戻し、そして尋ねた。


 「それは一体?」
 「……プライドさ。自らの研究が人類の未来に寄与するという独善的な確信だ。」


 探究心の発露は概ね個人の自己満足に終始するが、それが人々の幸福に繋がることを学徒は常に願うものだ。不幸を呼び込むための探求など、誰も望みはしない。
 旧世界を破滅に追いやった科学の力は、決して人々が本心から望んだものではない。そして迫り寄る破滅を退けるために生まれた『世界樹の種子』は、まさしく人類の未来を切り開くための希望の種子だったのだ。


 科学によって世界を滅ぼした科学者と、『世界樹の種子』で人類を救おうとした科学者と、どちらが彼らの本当の姿なのだろうか。
 そこに一つの答えがあるように私は思う。『王』は大地を再生させる道を選んだのだ。


 「難儀なものですね、知恵者というのは。」
 「そうだな。自分が賢いと思い込んでいる人種だからな。歯止めが利かないのさ。」


 それはこの躁鬱の激しい錬金術師にも言えることだ。私はつい吹き出してしまう。
 突然笑い出した私を目にして、ウィバは『アリアドネの糸』を買い忘れた冒険者を見るような呆れ顔で溜息をつく。
 そして、それを見て私の横隔膜は遂に私の制御下から抜け出てしまった。
 自分でもよく分からないが、なぜか彼のその仕草がおかしくて仕方がなかったのだ……






 世界樹計画が目指したのは果たして大地の再生なのか。それとも人類社会の再構築なのか。……ユーザのこういう疑問を目にしたことがあります。
 ガイア理論的な見地からするとこの2つはある意味で不可分なのでアレなんですが、まぁ、敢えてどちらに比重があるかを考えると納得しやすいのは後者の目的かなと思っています。なんだかんだでものっそい人間臭そうな人なので。ウィズルさん。


 さて、今回は「ウィズルさんの真の目的は地上と文明の隔離にあったんだよ」という話ですが、自分でもいまいち得心してない思いつきなので作中でも「これが真実なんだ!」という断言は避けています。酒の席でのリーダーの思いつきというこの説得力のなさ。


 じゃあなんでそんなネタをわざわざ持ち出してきたのかというと、再プレイの最中にウィズルさんの「迷宮の謎を明かしたらみんな不幸になるよ」的な台詞を見て「え、こんなのあったっけ!?」とビックリしたんです。で、当然このウィズルさんの独白は話の中に織り込まれていないので、今になって理由付けしようと試みたワケです。泥縄ですね。


 あと、基本的に話の流れが「悪いのは全部ウィズルさん」というスタンスで、他のキャラ(モリビトやレン&ツスクル)と比べて弁明の余地が余りにも少なかったので、フォローの機会を設けたかったというのも一因としてはあります。これは自分の趣味というか。
 ただ、これを戦闘前後に言わせると自己弁護っぽくて情けなくなりそうだし、スッキリしない顛末になりそうだったので、敢えてここに来て心情を慮るような形で仮説を持ち出してます。
 まぁ、実際はどうだったんだろうか、という結論については個々人が自由に考えるのが面白いと思います。自分的にはウィバの事後工作論が嫌らしくて面白いかなぁとか思ってるんですけど、これもあんまりと言えばあんまりですな。


 あと、世界樹2で判明した新事実で脳内設定が破綻してしまう可能性もありそうなので、ちょっとビクビクものの最近です。そうならないうちにネタは出し切ってしまうべきなんだろうなぁ。頑張ろう。