世界樹の迷宮・その47中編(アルルーナについて)

 パラディン♀ アリスベルガの日記


 予想された困難とは裏腹に、問題は極めて平易に前進した。私は樹海の入り口で右往左往するテッドの姿を見つけたのである。


 「いざ樹海に立ち入ろうとしたら、足が竦んでしまって。……僕はダメな男だ。」


 テッドはぶかぶかの皮鎧に身を包み、長い髪の毛を後ろで束ねていた。直立姿勢の割には妙に左肩が下がっているのは、腰から吊り下げた長剣に引きずられているせいだろう。


 「君が臆病であったことは朗報だ。少なくとも、私や君の父上にとってはね。」
 「僕を意気地のない男だと思っているんでしょう?」


 自らの勇を貶されたと感じたのだろうか、テッドは渋い顔をする。


 「勇気と蛮勇は異なる。そして樹海で生き延びられるのは勇気よりも理性に重きを置く冒険者だ。自らの力量を理解し、向上に努めるのならば今日の無力は恥じることではない。」


 テッドを宥めるのにそれから若干の手間が必要だったが、私は粘り強く彼の愚痴を聞いてやり、無理のない範囲でその健闘を称えてやる。しばらくすると彼もようやく普段の情緒を取り戻すことができたようだった。


 「大体、エルシーがどこにいるのか、君はそれさえも知らないのだろう?」
 「でも、地図を埋めていけばいつかは……!」
 「一体何日かかるというのだ。彼女が飢え死ぬのが先だ。」


 飢え死ぬ、という表現は直接的過ぎたのだろうか、青年の顔が悲痛に強張る。
 しかし、彼女を樹海に送り込んだ人々にとって、彼女を無為に生き長らえさせる理由などない。従って用意された食料は恐らくごく少量だと予想される。収穫祭が終わってからの時間を考えると彼女に残された猶予は極めて限られているのではないだろうか。
 そして何よりエルシーを助け出すにしても、彼女がどこにいるかさえ私達にはわからないのだ。
 時間もない。情報もない。打つ手がない。まったく雪隠詰めと言わざるを得ない状況だった。


 「これでわかっただろう。君には重荷が勝ちすぎる。さぁ、家に帰ろう。」
 「それだけは、嫌だ……!」


 テッドを見つけたまではよかったのだが、彼は決して家に戻ることをよしとしなかった。勿論それはエルシーを助けたいと願う彼の心情に起因するのだろうが、一方では親の金をくすねたバツの悪さも手伝っていたのかもしれない。
 私達は樹海の入り口で押し問答を続けていたが、一向に埒が空かない。日が稜線に沈んでもなお抵抗を続ける彼に対し、私は仕方なく彼をギルドに招くことにした。樹海には潜れない。しかし家にも帰れない。そんな彼をここに置き去りにすることはできなかったのだ。




 ギルドに着くなり、私達を出迎えたのはいつにない真剣な面持ちのリーダーだった。彼の後ろには他の仲間も控え、私と、私の同行者に奇異な視線を向けている。


 「誰かデスモンド邸に使いを出してくれないか。子息はこちらで預かっていると。……それぐらいは構わないな。」
 「……うん。」


 テッドは昨日に比べると明らかに意気消沈していた。彼が相対しているものがいかに大きな障害だったのか、平静さを取り戻した彼にもようやくその実像が見えてきたのかもしれない。


 「外は寒かったでしょう、アリスベルガ。お茶を用意してあります。」
 「エバンスさん、僕……」


 テッドはリーダーに話しかけようとしたが、リーダーはさっと踵を返して台所に向かうと、ポットを手に携えてテーブルに戻る。ここに座れ、という意思表示なのだろう。私はテッドに頷いてみせ、それから席に着く。


 「テッド、あなたに聞きたいことがあります。」


 リーダーは、温かな紅茶の満たされつつあるティーカップに視線を落としたままテッドに尋ねる。


 「彼女は、エルシーは、あなたにとって大切な存在なのですか?」
 「当然です。」


 その声には一片の迷いもなかった。彼のこんな断言を、私は初めて聞いた気がする。


 「エルシーは、僕のただ一人の妹だ。同じ血を分けた兄妹なんだ。だからエルシーは僕が守ってやらなくちゃいけない。か弱いエルシーを守るのは僕の務めなんだ。」
 「それは、君が彼女の兄だからですか。」
 「そうです。エルシーは生来光を失っている。だけど、だからと言ってそれがエルシーから人並みの人生を奪う理由になんてならない。そんな不条理、認められるワケがない。」
 「では、自らの命を賭してでも彼女を守りたいと?」


 ここに来て初めてテッドの表情が歪んだ。口も呂律が回らなくなり、段々と視線が沈んでゆく。


 「僕は…… 僕は、臆病な男です。エルシーの身を案じながら、でも、樹海に踏み入ることができなかった。危険に身を晒すことができなかった。だから自分の命を賭けられるか、と言えば、それは……」
 「……テッドは臆病者ではない。ただ、血気に逸りすぎただけだ。」


 リーダーの視線がこちらに転じる。私は唾を飲み込んでリーダーに訴えかける。


 「命を賭けることと、命を捨てることは違う。彼は自分の力で為し得る限りをした。彼の覚悟を量るのであればそれで十分だと私は思う。」
 「アリスベルガ、あなたはエルシーを助けたいのですか?」
 「できることならば。」
 「なぜですか? あなたは、なぜそんな……」


 不意に背後から吹き出すような笑い声が響く。振り向くとそこにはルーノの姿があった。


 「リーダー、それは仕方がないですわ。だって、今のテッドさんの瞳。昔のアリスにそっくりなんですもの。」


 私はテッドを見やる。誰かを守りたいと願う意志に輝く瞳。そして自らの無力さを知る空ろに乾いた瞳。それでも諦め切れない歯痒さに揺れる瞳。そうか、彼は…… 彼は私と同じだったのか。だから。だから私は……



 幼い頃、病魔に蝕まれたルーノを案じて私は彼女の騎士を気取った。気取った、のだ。騎士を務めたのではない。気取っただけなのだ。
 当然ながら私には何もできなかった。胸を掻き毟るような重い病苦に対して、私が抗じた策など可愛らしいまじないくらいのものだ。しかし、幸運にもルーノは病床から回復した。そして私は、あの頃の無力さを覚えているからこそ、自らが強くあらねばならないのだと心に命じている。
 そうだ、だから私はテッドを捨て置けないのだ。彼を見捨てることはかつての自分を否定することと同じだ。無力感に苛まれ、それでも藻掻こうとした自分の姿を無意味だと切って捨てることなどできはしない。


 「今は確かにテッドは無力かもしれない。しかし、彼が妹を助けたいと願うその気持ちまで、私は無碍にしたくはないのだ。それが私が彼に助力したいと思う理由だ。エルシーを連れ帰りたいと思う理由だ。」
 「例え彼女を連れ戻したとして、彼ら一家はこれから周囲の冷たい目に晒されることになりますよ。事後を顧みずに自我だけを押し通そうとするなんて、そんなの無責任にすぎるじゃあないですか。」


 リーダーの詰問に声が詰まる。私はエルシーを助けてやりたい。しかし、その後の顛末まで責任が持てるかと言えば、確かにリーダーの言う通り、難しいと言わざるを得ないのだ。彼女を樹海から連れ戻し、デスモンド家に元通りの平穏な生活を取り戻す。それは私には不可能な命題なのだろうか。


 突如テッドが立ち上がった。彼は矢庭に腰元からナイフを引き抜き、揺らめく蝋燭の光に煌く白刃を浮かされたような瞳でじっと見つめる。


 「エバンスさん、僕は……!」
 「テッド、待つんだ!」


 リーダーの制止の声が届く前にテッドは行動を開始していた。彼はナイフを逆手に構えると、それで後ろに結った長髪をざっくりと切り裂いたのだ。
 パラパラと髪の毛が床に落ち、そして彼はその手に握り締めた一房を突き出した。


 「テッドは死んだ、と。そう両親には伝えてください。……これは、遺髪です。」
 「テッド、君は何を……」
 「僕はエルシーと共にエトリアを離れます。エルシーさえ助かれば、僕は他に何も求めません。」


 エルシーを追って樹海に飛び込み、そして魔物の襲撃を受けて死んだ。そういうことにして欲しいと彼は暗に言っているのだ。
 それならば確かにテッドとエルシーは新たな人生を模索することができる。彼の家族の名誉も損なわれずに済む。勿論、テッドとエルシーは独力で生きていく道をこれから探さなければならないし、彼のような若造が妹を養いつつ日々の糧を得ることは容易いことではない。しかし、それさえも彼の覚悟のうちなのだろう。そこまでを考慮して彼は決断を下したのだろう。


 「エルシーを助ける。そしてあわよくば元の生活を取り戻したい。そんな虫のいい話を僕は求めてません。僕は命を賭けられない。僕は臆病だから。でも、エルシーのために何かを賭けなければならないのだとしたら、僕は僕の日常を賭ける。エルシーが失ってしまった日々の対価に。」
 「なんてバカな…… バカげたことを……!」


 リーダーは絶句して呆然とした表情でテッドを見やる。テッドの顔は緊張に赤く染まっていたが、その目には確かな理性の光が灯されていた。
 私は溜息をつく。まったく白旗を上げたい気分だった。


 「私は君の父上から、君を生きて連れ帰って欲しいと頼まれた。それでは契約が反故になる。困るな。」
 「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。でも、僕にはこれしか思いつかなかったんです。」
 「いや、構わない。ただ、君の両親にだけは君達が息災であることを伝えてあげたい。それは許して貰えるだろうか。」
 「僕からもお願いします。不出来の息子で申し訳なかったと。そして今までありがとうございました、と。伝えて貰えないでしょうか。」


 彼ら家族は、それぞれが離れ離れになろうとも強い絆で今もなお結ばれている。それは共に同一の困難に立ち向かったがゆえに生まれた連帯感なのだろうか。
 私は彼らが眩しかった。だが、それゆえに悲しかった。強く固く結びつく彼らを引き離さなければならない不幸を呪わずにはいられなかった。




 「『茨の海』です。」


 聞きなれぬ単語がリーダーの口から飛び出し、私達の視線が一斉にリーダーに集う。


 「エルシーは『茨の海』にいるハズです。そこには森の神様の御社があるのです。」
 「『茨の海』……? まさかそれは……!」


 リーダーは頷く。
 私は『茨の海』と呼ばれる場所に心当たりがあった。いや、私だけではない。仲間全員が一斉に同じ光景を想起したはずだ。
 蒸し暑く、鱗のような樹皮を纏う巨大な木々が生い茂る第2層の一角に、伸び盛る茨によって一面赤黒く埋め尽くされた大広間がある。そこはまるで海のように茫洋と輪郭を定めることなく、有機的な拡張と収縮を繰り返している空間だ。
 『茨の海』。その最奥にはツタと木の根が絡まって形成された小さな洞があったハズだ。そこにエルシーは連れて行かれたということか。


 「『茨の海』に侍従を連れて行くのは、彼らが自らの足で戻って来れないようにするためです。……まったく、酷い話じゃあないですか。」


 リーダーは自らを嘲笑うかのような態度で言葉を紡ぐ。
 『茨の海』は外界からの侵入を防ぎ、同時に侍従の逃亡を防ぐ。森の神様を奉る御社は街からも、森からも隔離された別個の空間なのだ。


 「伝統は固守しなければならない。私はそう教えられてきました。しかし、同時に誰もが奇異を感じる不合理まで見過ごすのはきっと誤りなのでしょう。変わっていくもの。変えてはいけないもの。それらを冷静に見つめ、判断して行かなければ、きっといつまでもこのエトリアは変わらない。破れて解れた衣を脱ぎ去ることができないのでしょう。」


 しきたりというものは蓋然性があって初めて成立するものだ。しかしその正当性が実地からではなく、惰性によって保証されたとき、しきたりは本来の姿を見失う。
 エトリアは、世界樹の迷宮の発見と共に急速にその姿を変貌させつつある街だ。街そのものが即物的な理屈によって今もなお作り変えられつつある。
 それに比べて人の心の変化は緩やかで保守的だ。現状を良しとし、変化へ向かうことを酷く恐れる。
 ならば今回の依頼は、そんな街と人の齟齬が生み出した歪みの一つの現われなのだろう。両者の変化の速度が異なるがゆえに世界は捻くれ、不幸を生み出す苗床を形作る結果を導いたのだ。


 「『茨の海』へは私も同行します。さすがにあなた一人では危険すぎる場所ですしね。」
 「……ありがとう、リーダー。」
 「もちろん私も協力するわ。ウィバさんとジャドさんもね。」


 ルーノが後ろに控えていた2人に目配せすると、2人は肩を竦めて互いに視線を交わす。


 「『茨の海』の生態は独特だからな。調査のついでなら構わない。」
 「ま、ご指名とあっちゃあしょうがねぇ。全くオレがいないと何もできやしないんだからな。」


 揃ってぶっきらぼうに言ってのけるが、彼らも本心としては、この危なっかしい青年のことが気にかかるのだろう。このギルドの連中はなんだかんだでお人よしばかりなのだ。


 「皆さん、ありがとうございます……!」


 テッドは声を震わせながら深々とお辞儀する。私は彼の肩に右手を添え、そして心の内で依頼の完遂を約束した。




 私達はテッドに外出を固く禁じ、いつでもエトリアを離れられるように準備を整えることを厳命した。代わりに必ずエルシーを連れて帰ることを約束して。
 一方で私達は樹海磁軸を通過して、太古の原生樹が未だに息衝く蒸し暑い熱帯雨林に辿り着いた。ここには『茨の海』に直結する隧道がある。
 樹海に潜む有形無形の敵意は、常にエルシーの身に牙を突きたてようと機を窺っている。最悪の事態を避け得るために、私達は一刻も早く彼女の身柄を確保しなければならなかった。


 「この隧道は、侍従を御社に導く神官達が開いたものなのでしょうね。」


 好き放題に伸び盛る林枝につけられた掻き傷を忌々しげに見つめながらリーダーは呟いた。
 樹海の只中を歩くにあたって、そんな飾りばかりついた服は不適に過ぎると常々私は献言しているのだが、これまでリーダーが考えを改める素振りは一度としてなかった。或いはそれが彼なりの拘りなのだろうか。
 隧道を抜け出ると、地獄の血の池と見間違うばかりの赤黒い茨の群生が一面辺りを埋め尽くしていた。カンテラによって照らし出される地面全てが刺を纏った蔓や茎によって占領され、わずかに侵犯を逃れて点在する乾いた砂土は、まるで大海に浮かぶ小島のようだ。なるほど、こうしてみると『茨の海』の名は確かに妥当な呼称のように思える。


 私達は意を決して『茨の海』の海面に足を踏み入れたが、本物の海が磯から離れるにつれてなだらかに深度を増していくのと同様に、『茨の海』もまた足を踏み出すに従ってその懐を深く大きくしていく。
 『茨の海』を満たす血を吸った群生に膝が浸かり、やがて腰まで飲み込まれるようになると、最初は具足で弾いていた茨の枝茎が、鉄片の合間を擦り抜けて腿を掻き始める。さらに具足に引っかかった茨を内部に巻き込んでしまうと、肉が抉り取られるように切り裂かれ、傷口は微細でも夥しい流血によって体力を奪われる。私達は不意に襲い掛かる激痛に顔を顰め、血に餓えた樹海の悪意に幾度となく呪詛を吐き出した。
 遅々として歩みは進まず、小島を見つけては小休止と治療を挟んだために、『茨の海』の最奥にひっそりと佇む森の神の社に辿り着くまでは随分と時間がかかった。しかしそれでも私達は致命的な深手を負うことなく、どうにか五体満足のまま目的地に辿り着く事ができたのだ。