世界樹の迷宮2・その0の5

 ドクトルマグス♀ ユーディットの記憶


 「ナガヤ様の部屋はこちらになります。」


 ドアノブを掴んだまま振り返った私が目にしたのは、目を見開いたまま呆然と直立する武士道の姿だった。それは突如として豆を投げつけられた鳩の反応にも酷似していた。
 私は扉に背を当てて一歩退き、右手を差し出して入室を促す。しかし、長身で、しかし猫背のその男は、まるで戸口に不可視の結界でも見出したかのように、その場から一歩も前に踏み出そうとはしなかった。


 「どうかなさいましたか?」
 「いや、ここが拙者の部屋というのは…… その、まことでゴザルか?」
 「ええ。狭苦しい部屋で大変申し訳ございませんが、お気に召すまま用立ててください。」
 「と、とんでもないでゴザル!」


 男は一歩退き、そして慌しく両手を振って弁明する。


 「拙者のような野烏に斯様な厚遇、まったくの過分にゴザル! 過分に過ぎるでゴザルよ!」
 「……とは、申されましても。」


 この男の口癖なのだろうか、自分には過ぎた扱いだ、と何度も男は繰り返す。しかし、そう言われてもこちらとしても困るところなのだ。ベッカー家が彼に宛がったこの部屋は、使用人に与えられるごく一般的な日陰の小部屋に過ぎず、それも長らく手入れの行き届いていない、埃に塗れた黴臭い部屋なのだ。
 或いはこの男は、言外に賓客としての遇を要しているのだろうか、と思いもする。しかし、落とした視線の先に泥に塗れて酷く解れた草履を捉えて、私は頭を振る。いや、単にこの男は小心なだけだ。


 「その、あの…… そう、納屋か厩でも空いてはござらぬか?」
 「納屋、ですか?」
 「左様。拙者はそれで十分にゴザル。何より、その…… 拙者は、あの足つきの寝床が苦手でゴザルよ。」


 足つきの寝床とは寝台のことか。彼の故国では、民人は皆揃って床の上に直接毛布を敷いて寝るらしいが、それが事実ならばどうにも不衛生な話で背筋が震える。恐らく彼の故国は寝台を組み立てる技術もない文明の光の届かぬ未開の地なのだろう。
 まぁ、そう考えれば男の主張にも納得が行く。馬には馬小屋を、兎には兎小屋を、鶏には鶏小屋を与えるのがスジだ。天蓋付きの豪華な寝台を与えられて喜ぶ馬はいない。
 ならば出自の疎かなこの男には、相応の遇し方があるのだろう。なまじ同等の人間として扱うのは不分明に過ぎるのだ。


 「わかりました。では、こちらへ。」
 「手間を掛けさせてかたじけなくゴザル。」


 私は視線で彼に追随するように伝えてから踵を返し、そして再び邸内を歩き出した。




 そもそも、なぜ私がこの地下侍を伴って邸内を巡っているのかと言えば、そこには兄上の意志が強く介在しているのだ。
 昨日、私と兄上は、『諸王の聖杯』の発見と入手を目的とする冒険者との会合の席に臨み、そこで私達は、父を破滅に追いやったデレクの息子と、甚だ粗暴で品性に欠ける野伏の娘と、路上の物乞いじみたこの男と、志を同じくするものとしてギルド『バラック』の発足を祝した。
 宴席の場で兄上が酷く上機嫌だったことは、私にとっては喜ぶべき一幕ではあったが、付随する明日の展望については、私は甚だ悲観的にならざるを得ない。それは、彼らが冒険者として余りに未熟なことも一因としてはあったが、何より問題なのは、この武士道が我が家に滞在する運びに至ったことだ。
 私にとっては全く不本意な経緯なのだが、それと言うのも以下のような事情があってのことだ。
 まず、この武士道の男はまったく金銭の持ち合わせがなく、今では逗留先の大家にドゲザ(向こうの風習で最大限の謝意を表現する儀式らしい)して風吹き長屋に住み置かせて貰っているらしい。さらに新年の鐘が鳴るまでに軒賃を払えなければ長屋を追い出されるのは必至とあって、(その境遇を哀れに思った兄上が慈悲の心で提案したのか、或いはデレクの息子が厚顔さを発揮して押し切ったのか、どちらが発端なのかはわからないが、いずれにせよ)結論として私達はこの男に軒を貸すことに決まってしまったのだ。
 兄上は彼の来訪を喜び、空いている部屋を自由に使えるよう私に言い含めた。まぁ、我が家の使用人の悉くは、件の事件を皮切りに引き止める間もなく皆辞してしまったのだから、使える部屋に不都合がないのは確かだ。
 しかし、それにしても野良犬とも痩せ馬とも知れぬこの男をベッカー家の邸内に留め置くことに私は大きな抵抗を覚える。今しがた出会ったばかりの薄汚い男に、なぜ私達の安穏とした生活を乱されなければならないのか、と。


 「毛布をお貸ししましょうか?」
 「過分ながら恩賜を頂戴するでゴザル。」


 過分だと思うならば断ればいいのに。私は洗濯の手間を考えて憂鬱さを覚えながらも、手にした箒で軽く床を掃き清める。一方で男は寝藁を抱えてきてはそれを一箇所に放り投げ、寝床と思わしき空間を作っていた。
 かつては毛ヅヤの整った量感のある馬体に埋め尽くされていたこの厩も、今となっては生命の躍動に絶えた寒々しいだけの空間と化している。それでも残っているかつての面影はと言えば、厩の片隅に積み上げられた萎びた寝藁の山くらいのものだ。


 「では、後ほどお届けに参ります。」
 「はっ、承知仕ってゴザル。」


 ハイ・ラガードの夜は冷える。寝藁に包まって寒を凌げというのも酷な話ではあろうし、明け方に凍死体となったこの男を見つけては夢見も悪い。些か不本意ではあるが、私如きの私情で兄上の面目を潰すワケにもゆくまいし、今はこの男の動静を窺うしかないのだろう。
 まぁ、それでもこの男の居住空間を屋敷の外に設えることができたのは幸いだった。少なくとも心理的な抵抗はこれで一段薄れる。とは言え、隙を見せれば邸内の物をくすねるような真似を見せるかもしれないし、気を許すには時期尚早に過ぎるだろう。


 「それとユーディット殿。」
 「はい、なんでしょうか。」


 この武士道の男に名前を直に呼ばれるのはあまりいい気持ちがしない。私は顰めた眉を悟られぬよう、手にした箒を手早く動かしながら視線を逸らした。
 しかし、その行為はある意味では誤りだったのかもしれない。従って私は、この男がどんな表情でその言葉を紡いだのかも解せず、その真意の奈辺を計りかねたのだ。


 「……兄君には気をつけるでゴザル。」




 毛布を初めとした寝具一式は嵩張るばかりで、力仕事に不慣れな私の手に余る。或いはナガヤに運ばせればいいのかもしれないが、あの男を屋敷に入れるのは業腹だ。まさか兄上に頼るワケにもいかないし、使用人抜きの生活はやはり不便ではある。
 しかし、それにしても先程のナガヤの一言が気に掛かる。「気をつけろ」とは一体どういう意味だろうか。まるで私が兄上に誑かされているような言い草だ。
 私も兄も、互いに互いがこの世で唯一の家族になってしまったのだ。世間の冷風を耐え凌ぐために身を寄せ合って生きていかねばならないのに、身内に猜疑心を抱くなど不毛に過ぎる。
 私は兄上を信頼している。兄上もそれは同じハズだ。ならばそれで十分ではないか。


 そんな他愛もないことを考えながら廊下を歩む私は、敷き詰めた絨毯の中ほどに未だ光沢を残す赤黒い染みを見つけた。
 その意味を瞬時に理解した私は、その場に寝具を投げ捨て、廊下に点々と続く染みを追って走り出す。


 「兄上!」


 息せき切って部屋に飛び込むと、そこには床に伏し倒れた兄の姿があった。その顔は血の気を失って蒼白に達し、それとは対照的に血泡に彩られた口元だけが生々しい色彩を放っている。
 心臓が凍るような寒気に襲われ、視界が緩やかに霞み始める。しかし、私は唇を噛み締めて薄れゆく意識を繋ぎ止めると、微動だにしない兄の元に駆け寄り、皮と骨ばかりの細く乾いた腕を取る。脈は…… ある。


 「ユー、ディット……」


 薄く瞼を開けた兄は何事かを呟こうとするが、わずかに上下する薄い唇には空気を震わせる力すら伴わず、音なき声は朝霧のように辺りに儚く散逸してしまう。
 とは言え意識があるのは幸いだったのかもしれない。私は急いで戸棚を開けると、油紙で封された薬包を取り出し、丸薬を2粒取り出す。


 「兄上、薬です。口を開けてください。」


 余りにも軽い兄の上半身を引き起こすと、力なく開かれたその口中に丸薬を放り込み、次いで水差しを宛がう。


 街に薬泉院を構える若い医師がジキタリスや樟脳から抽出したこの強心剤は、即効性に優れてはいるが同時に酷く精神を不安定にさせ、味覚異常や重度の痛痒といった副作用をも発現させる。元々一歩間違えれば毒にもなりかねないこうした劇薬の投与は、急場を凌ぐための必要な措置ではあるのだが、叶うことならばこんな薬にまで頼りたくないというのが私の本音ではあった。
 元々兄は身体が頑健ではなく、臓腑の働きが弱いため、このような発作も時折現れていた。しかし、昨今にあって発症の間隔は徐々に短くなりつつあり、症状も比例して深刻さを増しつつある。
 薬泉院に代表される公国の化学医療は、人体を一つの機工とみなすならば、医術を機工の保守作業の手段と見なしている節がある。罅割れを接着し、屈曲を打ち直し、錆に油を注す。しかし、それは機工に故障が生じる根本的な理由から目を逸らし、場当たり的な対処療法を繰り返しているだけに過ぎない。
 化学医療の英知の結晶は、兄の総身に走る苦痛を一時は和らげることだろう。しかしまたいつか発作は再発する。より深い痛みと苦しみを伴って。
 投薬を繰り返すだけでは、この輪廻から逃れることはできないのだ。今の医療の方法論では、兄上を延命させることはできても、苦しみから解放することはできない。


 だからこそ私は、化学医療とは異なる手段を模索した。そして、自然と人体の法理を司り、大地の恩恵を古くから活用する伝統医療の知識を学んだのだ。
 伝統医療を用いる彼ら呪術医の思想の基礎は、大地に溢れる生命力を身体に取り込むことにより、身体の機能そのものを改善させることにある。機工に例えるならば、部品自体の強度と信頼性を高めるのが呪術医の思想だ。
 そして、伝統医療を研究して私が得た結論は、数多の動植物を育む世界樹の中枢にこそ兄上を苦痛から解き放つ根源的な生命の化身が存在するということだ。それこそが『諸王の聖杯』。私達が追い求める至高の財宝に与えられた名前である。
 『諸王の聖杯』は、いかなる傷も塞ぎ、いかなる病も癒し、いかなる老いも退けるという。世界樹の生命力の体現とも言えるその宝物ならば、きっと兄上に健常な肉体と生活を与えてくれるハズだ。



 「もう十分だ、ユッタ。心配を掛けたな。」


 気付けに用意したブランデーを口に含んでから兄はそう言った。投薬を施してから半刻が過ぎ、ようやく兄上の容態も落ち着いたようだった。
 この1時間、私は兄上の体を簡易寝台としてのソファに横たえさせ、暖を取らせると同時に、乱れた生気の循環を整えるために金鍼を用いての鍼治療に没頭した。これは呪術医の修める施術の一つだ。
 不定期に痙攣する兄上の四肢に対して、精緻に鍼を刺入するのは些か困難さを伴ってはいたが、私は一秒でも早く兄上の苦痛を取り除くために、全神経を集中させて術式に臨んだ。
 この時ばかりは化学医療も伝統療法の別もない。ただ、兄上の身命を救いたいという気持ちだけで私は動いていたのだ。


 「思考が明朗なのだ。先程までの心臓を締め付けるような苦痛がまるで嘘のように。」
 「今は薬で抑えているだけです。急難を凌いだとは言え、ご無理はなさらぬよう。」


 僅かながら頬に赤みも差し、滑舌も平常を取り戻したようではあったが、それで兄上が快癒したと見るのは尚早に過ぎる。先程の強心剤には精神を昂進させる作用が伴っており、暫くの間は患者は気質が躁状態に傾くことがままあるのだ。


 「そう言えば、武士道の彼には滞りなく部屋を案内できたのかね?」
 「ええ……」


 この気難しい兄に、私室に纏わる顛末を語っていいものかどうか、私はしばし逡巡した。あの男の態度に兄上は与えた善意を袖にされたと感じるかもしれないし、病人に聞かせる話としては少々面倒な内容のようにも思えたのだ。
 とは言え、いつまでも隠し通せるワケでもなし、彼が望んだために仕方なく厩に案内したのだと、私はそう兄上に伝えた。


 「ふむ、それが彼らの気質ならば無理を強いる必要もあるまい。」


 兄の反応は、存外に軽微なものだった。安堵のような、落胆のような、複合的な感情が私の胸中に渦巻く。
 そもそも、なぜ兄上があの武士道の男を重く見ているのかが私には不可解ではある。力量からしても、人格からしても、敬服に値する要素など一片も垣間見えないし、何よりあの男の兄上を見る視線は猜疑の色合いを帯びていて不快ですらある。
 或いは敢えて兄の勘気に触れされ、あの男を屋敷から放逐させた方が今後のためになるのかもしれない。さりとて兄上の気を刺激するのも好ましい話でもない。悩ましいところだ。
 そんなことを考えていたせいだろうか、ふと、思いついた言葉が口に出てしまった。


 「そう言えばあの男、私に対して忠告を発してきましたよ。『兄上に気をつけろ』と。」
 「彼が、そんなことを?」
 「ええ。」


 兄の瞳が冷たい光を放ち、薄い唇が固く結ばれた。兄は何事かを思案しているようだった。
 私は腹中に得も知れぬ勝利の高揚を覚え、その一方で奇妙な不安にも囚われた。兄上があの男をいぶかしむのはいい。しかし、そうなるとあの男の忠告は正鵠を射ていたことになる。ならば兄上は私を謀にかけているとでもいうのか? そんな馬鹿な!


 「……どうやら彼には見透かされていたようだな。」
 「兄上……!?」
 「うむ、久々の酒席に昂じ過ぎたようだ。」
 「……は?」
 「ああ、だから。彼は私の体調を気遣ってくれたのだろう。来客を持て成すどころか気を使わせるとは、全く当主として恥じ入るばかりだな。」


 あの男が私に投じた『兄上に気をつけろ』という忠告。あれは兄上に腹蔵あることを伝えようとしたのではなく、単に兄上の体調に影が差していたことを示唆しただけなのか?
 いや、しかし兄上はあの時の彼の様子を知らないからそう思うのだ。あの時のナガヤは…… あの男は…… ヤツは、一体どんな表情をしていたのだ!?
 考えてみれば私もあの時は目を逸らしていた。ゆえにあの言葉の真意は私にもよくわからない。
 或いは真意を量るために、あの男を問い詰めることもできよう。しかし、それでどうなるというのだ。深入りしたところで得るものなど何もない。先程覚えた戦慄と再び直面する勇気など私は持ち合わせていないのだ。




 「ユッタ、薬のせいかどうも気が昂ぶりすぎているようだ。少し戯言に付き合ってはくれないか。」
 「はい、仰せのままに。」


 兄上は私を頼ってくれる。それこそが信頼の現われではないか。ならば何を疑う必要があろう。私は兄を信じる。それだけのことだ。


 「私は考えるのだ。『諸王の聖杯』が世界樹の樹上にあるのだとしたら、一体、誰が、どうやって、聖杯を樹上に持ち込んだのだろうか、と。」
 「世界樹の頂上は前人未到の領域。なのに聖杯が安置されているのはおかしいと?」
 「そうだ。ユッタ、お前はどう思う?」


 例えば樹海には明らかに人の手によるものと思われる宝箱が置かれている。なぜそうした物が樹海に放置されているかについて、樹海に関わる人々の多くは思考を放棄しているように思える。「樹海とはそういうものだ」と片付けてしまうのだ。
 しかし私達は、樹海の天辺に『諸王の聖杯』が存在するという前提で樹海に挑もうとしているのだ。ならばこの設問に対して合理的な解答を得ない限り、私達の行旅は暗中模索と同義であり続ける。


 「……そうですね。私達の記憶の及ばない遥かな過去の時代に、勇壮なる英雄が敵対者の手が及ばぬよう、樹海に聖杯を隠したのではないでしょうか。」
 「なるほど、なかなか叙情的な回答だ。」


 褒められているのではないが、落胆されてもいないようだ。まぁ、兄上も本気で私に答えを求めているワケではないのだろう。私はこれから披露されるであろう兄上の持論に耳を傾ける。


 「聖杯は、樹上に置かれたのではない。かつては地上に置かれたのだ。」
 「ええ、ですから誰かがそれを樹上に運んだのでしょう?」
 「いや、私はそうは思わない。そもそも、なぜ世界樹はこのハイ・ラガードの地に聳えているのか。聖杯は、世界樹の生誕に深く関与しているのではないかと私は思うのだ。」


 世界樹と『諸王の聖杯』。一見繋がりに欠けるこの二つの単語から兄上は何を見出したと言うのだろうか。
 先程ブランデーが注がれたグラスを卓上から取り上げて、兄上はそれを眼前に掲げる。まるで聖杯を掲げるように。


 「かつて聖杯は、宮殿の宝物庫に安置されていたと考えよう。まぁ、別に場所の如何は問題ではないのだがね。」
 「地上にあったということが肝要なのですね。」
 「そうだ。さて、どのような事情に拠るものかはさておき、聖杯は地に放り出された。戦乱か災害か、まぁ、何かしらの大きな天変があったのだろう。」


 そう言って兄上は、聖杯に見立てたブランデーグラスを卓上に置く。


 「聖杯は地面に転がっていたのかもしれないし、あるいは地中に埋まったのかもしれない。……肝要なのはだ。」


 そして兄上はグラスの縁に指を掛けて、ゆっくりとグラスを傾け始める。


 「聖杯に注がれた水は、その全てが神性を帯びるということだ。」
 「不老長命の生命の力を得るのですね。」
 「ああ、それが例え雨水であろうとも、泥水であろうともな。」


 傾けられて重心を崩したグラスは転倒して硬質の響きを立てる。底に微かに残った雫が緩やかな曲線を描くグラスの内側を伝ってテーブルクロスに落着する。


 「神性を帯びた水を浴びて大地に根付く草木はどうなるだろうか。そう、聖杯の力によって非常識な発育を見せるのではないか。」


 テーブルクロスに足場を据えたブランデーの雫はゆっくりとその身を絹地に染み込ませていく。まるで大地に染み込む雨水のように。


 「そして生育を始めた草木は生命の力を聖杯より授かり、天へ天へと成長を続ける。幹を肥やし、枝を伸ばし、葉を茂らす。虫を這わせ、鳥を招き、獣を導く。かつての葦草は聖杯の恩恵を受け、今や世界に類を見ない長命の大樹へと変貌したのだ。」
 「……それが、世界樹。」
 「そうだ。そして世界樹に押し上げられて聖杯は樹上にその座を得た。私は世界樹と聖杯の関係は不可分であると考えている。」


 聖杯は人為的に樹上に運ばれたのではなく、聖杯の力で異常な成長を始めた草木によって蓋然的に樹上に押し上げられた。人跡未踏の地に人の手による遺物が存在している理由を、兄は聖杯の神性から導き出してみせたのだ。
 聖杯によって世界樹は生まれ、世界樹によって聖杯は守られている。それが世界樹と聖杯の分かち難い関係なのか。


 「デレク殿の確信の理由も恐らくは同じだ。世界樹の存在こそが聖杯の実在を保証する。樹上の聖杯は私達の目には捉えられずとも、世界樹の姿は容易に見上げることができるからな。」
 「しかし、それは仮定に仮定を重ねただけの循環論法ではないですか。確かに筋は通っているかもしれませんが、あまりにも実証的ではないというか……」
 「ならばユッタ、お前はなぜあの世界樹が生まれたのだと考える? 世にも稀なあの巨木が、一体どのような理由によって天まで枝を伸ばしたのだと?」
 「それは……」
 「いや、論議を交わそうというのではない。仮説に過ぎないことは私も重々承知しているのだ。実証が必要ならば私達がそれを果たせばいい。」
 「世界樹の天辺に辿り着き、聖杯を手にすることで?」
 「そういうことだ。」


 求むべき宝の実在を疑ってしまえば、苦難に心が折れてしまいかねない。それを兄上は何よりも恐れているのだろう。尤も私に関しては、それは過分な心配だ。
 兄上は『諸王の聖杯』の実在を確かに信じているのだろうし、それは私も同じことだ。『諸王の聖杯』こそが私達に残された唯一の希望だからだ。
 ゆえに私達は挑むのだ。清栄峻茂の世界樹へ。広大無辺の迷宮へ。鬼気森然の天頂へ。迷いなど、ない。




 ハイ・ラガードの朝は遅い。人々に目覚めを知らせる聖堂の鐘が鳴り響いても、辺りは未だ夜の帳に包まれている。太陽は未だ稜線の陰に隠れ、彼方に広がる群雲はおぼろげな陽光を吸って暗く灰色に濁っている。庭園に日が射すにはあと一刻ばかり必要だろう。
 私は厩の凍みついた扉を力任せに引き開けると、昨日ここに居宅を構えた住人の名を呼んだ。


 「ナガヤ様。朝食の準備ができました。食堂へお越し下さい。」

 まるで女中の真似事をしているようだ。気味が悪い。
 あの男を食堂に招くことは、私の本意ではないのだが、例によって兄上がそれを望んだのだから仕方がない。あの食の細い兄上が、自ら朝食を共にするなどと驚嘆の申し出を発したのだから、私情めいた不満にはこの際目を瞑るべきだ。


 「……ナガヤ様?」


 しかし、私の呼びかけに対して応える声はなく、厩はいつものように静まり返っている。まるで昨日の出来事が嘘だったかのように。
 実際夢か何かであればよかったのに、と私は強く思いもするのだが、厩の一角に不自然に積み重なった藁床が私のささやかな切望を否定する。よくよく目を凝らしてみると、その藁床は羽化を控えた蛹のように時折小さく蠢いていた。


 「ナガヤ様。朝です。起きてください。」


 私は厩に踏み入り、一直線に藁床へと足を進める。ふと私は何か奇妙な違和感を覚えたが、首を振って藁床で夢に溺れるナガヤの顔を覗き込む。


 「ナガ……」


 藁床に横たわる彼の顔を見て、私は声に詰まった。
 その表情は、血の気が引いて今や土気色と呼んでも差し支えない。前髪が汗で額に張り付き、吐息は熱を帯びて律動を欠いている。奥歯がカタカタと鳴り響き、体をまるで赤子のように縮こませている。


 「や、やぁ、ユーディット殿……」


 弱々しく目を見開いた彼は、それだけを口にした。その声音は悪寒に震え、著しく張りを欠いている。明らかな風邪の初期症状が見て取れる。
 そしてその瞬間、やっと私は思い至ったのである。先日の彼との約束を。毛布を運び込むつもりで、それが果たせていなかったことを。


 「故人曰く、病は気から、と申すからには、拙者の気が緩みが大元の原因でござろう。まったく頑健のみが取り柄だというのに、無様な体を晒してまことに面目ないでゴザル……」
 「わ、私……! なんてことを……!」


 隙間風こそないものの、厩は地面が露出しており、体を横たえてしまえば覿面に体温を奪われる。それが身体から抵抗力を奪い、風邪を呼び込む原因になったのだろう。


 「まことにかたじけなくゴザルが、兄君には事の次第を伏せては貰えぬだろうか。拙者が恥をかくのは已む無くとも、兄君にまで恥をかかせたとあっては、天に不義者と笑われるでゴザル。」
 「そんなことを言っている場合じゃありません!」


 まず自分の体のことよりも、先に兄の体面を斟酌するこの男の思考体系がわからない。今まさに病疫に苛まれているこの男は、なぜこんな時分にまで虚勢を張り続けるのだ。


 「ユーディット殿も、拙者のことは捨て置くでゴザル。感冒が伝染しては困るし、この程度なら1日寝ていればすぐ快癒するでゴザルよ。」
 「いいえ、すぐに薬をお持ちします! お待ちください!」


 彼は、地面と長く接したことで体内に冷と乾の陰気が澱んでいる。ゆえに暖を取らせ、水分を与え、休養を取らせることで身体の平衡を取り戻すことができるハズだ。オートミールとセモリナの乳粥も用意すべきだろう。砂糖とアーモンドをふんだんに用いて口当たりを良くし、十分に滋養を取らせなければならない。
 私は踵を返し、持ちうる限りの力を賭して厩を走り出た。




 ナガヤは、厳寒に身を晒しながらも決して邸内には足を踏み入れようとはしなかった。それが彼なりの節度だったのかもしれないが、それで体調を崩してしまったのであれば元も子もない。武士道とは皆が皆、そんな融通の利かない連中ばかりなのだろうか。
 まぁ、他人のことはともかく、医学の心得を持つ者として、不注意から彼の健康を害したことは私自身深く反省してもいる。兄上の件は言い訳にしかならないし、この件に関しては兄上からも酷く叱責された。
 ともあれ、この件を契機にしてナガヤは邸内に部屋を持つことになった。私も彼もそれを受け入れることにした。つまり、互いに迷惑をかけまいと妥協したのだ。
 彼の逗留は未だ私にとって頭痛の種ではあるのだが、それでもなんとか感情に折り合いをつけて受け入れなければならないのだろう。


 こうして邸内に正式に居を構えたナガヤは、次に邸内の雑事を請け負うことを提案してきた。箒を持たせてみたら風体に見合わない細やかさを発揮してみせたのが意外ではあった。
 今では家内の雑事一般を任せてはいるが、まぁ、使用人を一人雇ったのだと考えれば(しかも無給で)、意外とこれは納得できる選択だったのかもしれない。
 過度に過ぎるほど仕事には熱心な男ではあるし、手癖も悪くはない。試しに書斎の書き物机に小銭を散らしてみたら、どこからか調達したのか麻の小袋が置いてあり、封を紐解いてみると銅貨の一枚まで欠けずにきちんと揃っていた。
 このようにナガヤは優秀な使用人だ。その代わりと言ってはなんだが、彼が剣術の稽古に勤しむ場面に未だ私は遭遇した試しがないのである……






 世界樹の迷宮2の舞台となる『世界樹の迷宮』はハイ・ラガード公国の街のど真ん中に聳え立っている大木です。今回の世界樹の迷宮2は前作と地理的、時間的に陸続きにあるため、前作経験者であれば世界樹の正体についてもある程度推測ができるのではないでしょうか。
 まぁ、自分もご多分に漏れず色々と展開を先読みしてるワケですけど、身構えるのは程々にして開発者の思惑に弄ばれるのも一つの楽しみ方ではあります。というかロールプレイ的な観点からするとプレイヤーの知識をゲーム内に持ち込むのも少々趣に欠けるよなってことで、世界樹はなぜあんなにデカいのか、をファンタジックに考えてみるのもこれはこれで楽しいのではないかと思う次第です。
 というか前回のパターンをそのまま踏襲ってのも、それはそれで味気ないような気がするんですけどねぇ。前作はシナリオ自体が期待されていなかったと言うか、「シナリオは希薄ですよ」と前以って断りが入ってたのが奏効してた気もするので。
 今回のユーザはみんな前回の経験を糧に身構えているので、前回以上のサプライズを演出するのはなかなか難しいとは思います。その包囲網を潜り抜けて世界樹が新しいサプライズを提供できるかどうかは、個人的には非常に興味深いポイントです。




 さておき、これで世界樹の迷宮に挑むパーティ紹介を兼ねての前置きも終わりました。長かった!
 基本的にこの手のギルド結成の流れは、書こうとすると真っ当な起承転結を伴ったプロットを構築しなければならないので、やり応えがあると同時に燃え尽きやすい題材ではあります。なぜ自分が前作でギルド結成のくだりを省いたのかと言えば、それが一つの理由でもあったりします。
 まぁ、今回は発売前に時間的・精神的余裕が与えられたということで、チャレンジに踏み切るのもそれほど抵抗はありませんでしたし、ゲームの情報が定期的に露出していたのでモチベーション的にもいい推移で進めることができました。
 また、この手の紹介は本当に自己満足に過ぎなくて、実際に冒険者の生き様を定めるのは「冒険にどう挑んだか」だと思うのです。が、発端が欠けてるのもちょっと寂しいかなとも思ったので、まぁ、無駄になっても構わないからやってみるか、という気持ちで始めてみました。


 あと、方々でこれは発言してるんですが、実はドクトルマグスはドレッドを使いたかった……! 自分的には今まで世界樹のキャラでグッと来た外見ってあんまなかったんですが、30代くらいの渋い兄貴は今回初登場って事でかなりグッと来てます。
 で、だったら遠慮ナシに使えばいいじゃないか、という話に発展するんですが、そこはそれ、パーティのバランスを考慮してこんな形になりました。
 実際にドレッド兄貴を使う場合のパーティ構成もシミュレートしてみたのですが、しっくり来る組み合わせが見つからないんですよね。もっと自分に幅があれば、或いはドレッド兄貴を含めた構成を考えられたのかもしれないですが、今回は「好きなキャラ」より「好きなパーティ」を優先しました。
 なので、自分が一番想像を働かせやすい理想形を追求したのが今回のパーティです。そういう意味で、自分は今回の構成に自信があります。
 まぁ、これがゲーム的に果たして有効な組み合わせかどうかは蓋を開けてみないとわからないのですが、末永く付き合っていければなぁと思っています。