世界中の迷宮2・その9の3(5F)

 ソードマン♂ べオの記憶


 「『百獣の王』! 本当にお前は、フロースガルさんをその手にかけたのか!?」


 剣と爪とが噛み合って、硬質の摩擦音が軋りを上げる。強大な膂力を以ってこちらを押し潰そうとする獅子の前腕を、オレは両腕に力を篭めて押し返す。
 オレの問い掛けに対し、『百獣の王』は何も答えず、ただ獰猛な唸り声だけを高くする。おぞましい3対の瞳はどれも等しく敵意と害意に燃え盛り、こちらと意志を通じようとする気配など全くとして窺わせない。
 樹海の悪意を五臓に溜め込んだかのような、暴悪の体現者。狂気の陽炎を立ち上がらせるその瞳からは、あの温厚で情け深い赤毛の聖騎士の面影など一片たりとも見出すことができない。
 同じ聖騎士の朋友であっても、それは御堂の水鏡にも似たクロガネの瞳とはまるで違う。夜の樹海を思わせる粘つく闇に染まり、狂気と憎悪に血走ったその眼球は、迷宮の内と外で生まれた生命が根本的に別物であることを否応なく意識させられる。
 情けをかける暇などない。剣を振るわなければならない。そう結論付けるまで、長くはかからなかった。


 全身の筋肉を漲らせて正面から組み合うオレ達の頭上から、大気を強引に断ち切るような、重い風切り音が飛来する。『百獣の王』が口の端を不気味な歪めたその瞬間、オレの背中、肩甲骨の合間から、突き刺すような熱い感覚が突如として広がった。
 その正体を見極めようと、オレは歯車が軋むようにゆっくりと頭を巡らせる。守りの薄い背甲の合間を縫って深々と背筋に牙を突き立てたのは、『百獣の王』の臀部を起点に、上空からアーチを描いて飛来した一匹の大蛇の姿だった。
 金色に光る大蛇の目に射竦められたせいか、オレの総身を怖気が震い、剣を握る腕から刹那、力が抜ける。その瞬間、猛然と振り回された『百獣の王』の前肢によって、頬を勢いよく殴られたオレは、足に力を篭める間もなく宙に弾かれると、そのまま仰向けに転倒して地面を強かに転がった。
 背部の刺傷と、顔面の切傷と、出所の知れない打撲とが起点になって、渾然とした激痛が全身を隈なく駆け巡る。辛うじて受身は取れたので、こうして意識は保持できているものの、いっそ昏倒してしまった方がラクだったのかもしれないと思えるほどに、押し寄せる苦痛の波は強烈で、しかも一向に衰える気配がない。
 ひょっとしたら蛇の毒が回っているのかもしれない。思考はどこか霞みがちで、全身を浮遊感にも似た虚脱感が包んでいる。四肢を折り曲げることさえ僅かならぬ鋭意を必要とし、重力に逆らって再び体を持ち上げるために要した努力はと言えば、冷気で窓が割れるような厳冬の朝の寝起きさえも凌駕した。
 それでもオレは剣を支えに、崩れ落ちそうな足腰をひたすら鼓舞し、必死で大地を足裏で踏み締める。どれだけ手酷い痛打を受けたとしても、オレは伏し倒れるワケにはいかない。『百獣の王』の眼前で、無様に地面に這いつくばりたくなんかない。
 こいつは、『百獣の王』は、命の恩人に対して仇を仕掛ける不忠者なんだぞ! 例えそれが抗することのできない獣性の発露なのだとしても、不実を果たした咎人相手に膝を屈することなど許されるものか。膝を折って命乞いをするような無様な風姿など、晒せるワケがない。


 「答えろ、『百獣の王』ォォォッ!」


 『百獣の王』が理性を放り捨てたのだとしても。『百獣の王』と意志を通じあえないのだとしても。
 それでもオレは、『百獣の王』に問い質さずにはいられなかった。お前は、その手で父親を死に追いやったのかと。その爪で、その牙で、無残に『百の名の勇士』の五体を引き裂いたのかと。


 やはり『百獣の王』からの返答はなかったが、なおも続く詰問は、この暴威の獣王の矜持に僅かならぬ瑕をつけたようだった。なにせ被捕食者に過ぎない人間が手傷を負って命乞いもせず、それどころか抵抗の意思をより露わにしてみせたのだ。王者にとってこれは屈辱以外の何物でもない。
 寛容の衣は引き裂かれ、内から現れた驕慢が激昂を誘発する。『百獣の王』の瞳は逆上に赤く染まり、口辺から泡を飛ばして狂態を強くした。そして、樹海の峻烈さの体現でもあるこの異形の魔物は、黄金の体毛に包まれた前肢と、冷たく固い鱗に覆われた後肢とで代わる代わるに地面を蹴り飛ばし、猛然と突進を開始したのだ。
 大小様々、不揃いの牙を剥き出しにして、左右の山羊の頭に備えた捻れた角鉾を逆立てて、『百獣の王』は、傷ついた獲物に止めを刺そうと最後の突撃を開始する。しかし、勝利を確信したであろうその断行は、突如飛来した疾風のような尖矢によって、おもむろにその成就を阻まれた。
 肩口から鮮血が奔り、『百獣の王』は歩様を乱して姿勢を崩す。次いで左右から飛び込んだ武士道と呪術医とが、刀剣を以って交互に接近戦を仕掛けると、『百獣の王』は身を屈めてから俊敏に後方に飛びずさる。『百獣の王』は不意の闖入者へと視線を巡らせ、次に蝙蝠のような皮翼をはためかせると、怒りの声を高くして新たな狩猟を開始した。


 「くそ……っ! 答えろよ、『百獣の王』! お前には、父親から受け継いだ誇りがあるハズだろう!」


 オレは三度『百獣の王』に糾問の声を飛ばす。しかし、魔獣はこちらに一瞥をくれることもなく、先生とユーディットさんを睨みながら、忌々しげに地面を爪で掻き毟っている。
 互いに個対個で切り結んでいるならいざ知らず、武装した冒険者に周囲を囲まれた今の魔獣には、オレだけに配意を巡らしている暇はないようだ。或いは、剣を構えたまま居竦んでいただけの柔弱な人間と、オレは切って捨てられたのかもしれない。
 魔獣の関心は既に次なる獲物と定めた2人の人間の元へと注がれている。首元から奇怪に生える山羊の頭でさえ、その視線は揃って前方へと向けられていた。


 「『百獣の王』は、我を失っている。問うのは無駄だ。」


 地面を滑るようにして近づいてきたのは、呪い師の男だった。彼は懐から薬壜と包帯を取り出すと、不慣れな手つきで応急処置を始める。


 「この場で『百獣の王』を食い止めなければならない。ノワイトさんは、そう言いましたよね。」
 「それがどうした?」
 「やっと、オレにもその意味がわかりました。あれは既に理性を失っている。危険にすぎる存在だ。」


 あの聖騎士が訓育した獣ならば。それならば或いはクロガネと同様に、言語を用いた対話は不可能でも、意志を交わすことは可能なのではないか。オレは当初、そう希望を抱いてもいた。
 だが、現実には『百獣の王』は、交感の方策の全てを拒んでみせた。ただ、目に映る全ての生命に対して過剰な憎悪を振り撒き、害意を浴びせ続けていたのである。


 「獣に理性などないよ。彼らは本能に従うまでだ。」
 「全ての外囲と敵対するのが獣の本能とでも? 野生とは、もっと慎重で理知的なもののハズだ。」
 「君のその認識は概ね正しい。では、かの魔獣が本能に反するまでの執拗な敵意を露わにし、狂態を呈しているその理由が君にはわかるかね? 『百獣の王』は、なぜ王にあらざる振る舞いを披見しているのか、ということだ。」


 狼であれ、虎であれ、獅子であれ、彼らは常に野生の規律を遵守する。その行動が本能に根差した脊髄反射に過ぎないとしても…… いや、だからこそ、彼らは己に律した規範を忽せにすることはない。
 そして、本能に統御された単純で明快な行動理念に対して、人はしばし彼らに王者の気宇を見出すものだ。それは裏を返せば、時として人間が理性を感情で捻じ伏せる、現実原則を恣意的に踏み外す危うさを、自らに認めているからでもある。
 『百獣の王』もまた、樹海という名の織布に縫い込まれた縦糸の一本だ。彼は、本能という名の規律に従って樹海を闊歩し続け、そして遂には王の名を得た。
 しかし、自己の身命すら顧みず、蛮勇のままに危地に飛び込む彼の姿のどこに、樹海の王者の風格を見出せるというのか。今の彼は、世界を食い尽くし、そして最後には自分さえも食い尽くしてしまう神話の魔物のように、樹海を燃やし尽くし、共に自らの命を燃やし尽くそうとするような、歪んだ破壊衝動の虜になってしまっているようにも見える。


 「先程、君は分かるワケがないと言ったな。子供を殺そうとする親の気持ちなど。」
 「確かに言いました。でもそれが?」
 「逆はどうだ。親を殺す子供の気持ちが君には分かるか?」
 「……それも、わかりません。」
 「ならば『百獣の王』の苦しみは、君の目にはさぞや奇異に映ることだろう。それはそうだ。彼らの本能には、親を殺す命令など、元より書き込まれてはいないのだからな。」


 獣の、規範が狂ったのか。本能に従うべき彼らが、自らの本能を食い破ってしまったというのか。
 だから、『百獣の王』の王は、狂乱を呈している。獣の論理さえもを失い、暴走しているのだ。
 そして、そこから導き出される回答は一つしかない。『百獣の王』の本能を破壊させたのは――


 「……フロースガルさん、なのか。『百獣の王』は、彼に、手をかけて……っ!」
 「それが、魔獣の狂騒の理由だとすれば理解も及ぶ。……残念な話ではあるが。」


 オレ達は、間に合わなかったのか。生きて『百の名の勇士』と会い見えることもできず、彼を死の淵から引き上げることも叶わなかった。
 オレ達がこの第1層の最奥で見つけたのは、親をその手で縊ってしまい、悲嘆に泣き暮れる子供の姿だけだった。介入者の手出しを許さずに悲劇はつつがなく進行し、そして既に幕を下ろしていたのだ。


 「仇討ちをしよう、とは考えるな。怒りは剣筋を鈍くする。」
 「わかってますよ。それでも…… それでも……っ!」
 「聖騎士の遺志を継ぐと思え。それは誇りある使命だ。」


 それがどれだけ胡乱な詭弁に過ぎないとしても、今のオレにとって、その言葉は何よりの慰めだった。日頃、呪いと祝いは表裏一体なのだと説く彼の言葉も今なら頷ける。
 赤毛の聖騎士が本当に『百獣の王』の死を望んでいたかと言えば、それは正しい見方ではないのだろう。しかし、彼は『百獣の王』の暴走を食い止めるべく死地に挑んだのだ。
 今なら、その意味が分かる。その覚悟が分かる。その無念が分かる。
 そして、だからこそ、引けない。だからこそ、戦う。だからこそ、オレは勝ちたいんだ。


 「しかし、果たしてあの魔獣をどう攻略する? 手は出る、足は出る、尻尾も出る。おまけに火を吹かれては、もはや抗しようもない。今は呪言で気勢を弱めてはいるが、いつまで奏効するかは怪しいものだ。」


 確かに『百獣の王』の手数の豊富さと言ったら、複数で周囲を取り囲んでも逆に押し返されてしまうほどだ。これで相手が人間であれば、行儀の悪さを窘めもできようが、本能の砕けた獣が手段を選ぶような道理はどこにもないし、となれば真っ向から力で捻じ伏せるより他にない。


 「アタシが、囮になる。」


 方策を決めあぐねているところに口を挟んで来たのは、野伏の少女だった。茂みから這い出てきたミレッタは、衣服に絡みついた枝葉を払い落とすと、決意に固まった瞳を覗かせる。


 「ミレッタ!? 何をバカげた……っ!」
 「適材適所よ。それはアタシの役目ってこと。」


 そう言ってミレッタは自らの上腕を左手で掴む。長年の鍛錬の成果か、ミレッタの二の腕はしなやかな筋肉を身に纏ってはいたが、やはり年相応の少女のそれらしく、あからさまに膂力を振るうための戦士の豪腕とはかけ離れている。


 「魔獣退治は、ベオとナガヤに任すわ。アンタ達なら、できるんでしょ。」


 ミレッタは、続けて先生とオレの名前を口にする。『ラフレシア』を燃え殻にした、あの連携を狙えと言っているのだ。


 「正直な話、アンタ達、ヘタレツートップに命運を託すってのはゾッとしない冗談だわ。けどね、ベオ。クロガネに生き延びろって厳命したならね、アタシ達が先にくたばるワケにはいかないの。生きて帰る意志がないならね、あんな大口、最初から叩いちゃいけないのよ。」
 「……ああ。オレ達は生き抜いて、そして全てを伝えなきゃならない。」
 「わかってんじゃない、グリーンボーイ。ならさ、必ず仕留めなよ。あのコウモリ翼の片方をもぎとって、トンマな好事家に伝説の竜の翼にごさいと押し付けてやんな。泡銭で樹海料理ってね。当然ベオの奢りでさ。OK?」
 「ああ、やってみせるよ。やって、みせる……!」


 不敵に笑みを浮かべてから、ミレッタはマントを素早く肩から着脱した。樹海の木の実を使って裏地を朱色に染め上げた厚手のそれを右手に掴み、彼女は『百獣の王』へと軽捷に走駆する。


 「浅薄な考え方をする女だ。」
 「でも、だからミレッタは迷わないんです。」


 怒り猛る『百獣の王』の眼前に姿を晒したミレッタは、右手に掴んだマントを頭上に掲げると、魔獣の目を引くように、それを左右にはためかせてみせる。陣中で威容を誇示する軍旗のように、それはこちらの健在を大いに知らしめ、そして『百獣の王』の勘気を激しく誘う効果を発揮した。
 矮小な人間が、その体躯に見合わぬ居丈高な態度を見せつけたことで、捕食者の頂点たる『百獣の王』は、大いに怒り狂い、そしてその暗愚な振る舞いを中断させようと決意した。その四肢を用いて目障りな闘争の旗印を引き裂こうと躍りかかったのだ。
 しかし、ミレッタは迫り来る魔獣の爪牙を間一髪で伏して避けると、身を起こして再びマントを大きく翻す。次々に繰り出される前腕での一撃を、軽快に、しかし際どく避け続けるその姿は、まるで猛牛を片手であしらう闘牛士のようだ。
 だが、それにしても、曲馬団の出し物にも似たこの危険な演目には、どうにも歯の根が震えて止まらない。今は暴威を極める魔獣の猛攻を、幸運にも紙一重で避け続けてはいるが、もし不運にもその一撃がミレッタの頭を捕らえでもしたら……
 その時は、熟れて石畳に落ちた枇杷のように、それは不恰好に潰れて四散して。そして魔獣は、喉を鳴らしながら獲物の成れの果てを啜り立てるとでも言うのか。
 そんな悪夢の光景を想像して、オレは居ても立ってもいられなくなる。一秒でも早く、『百獣の王』に致命打を与え、ミレッタのその身を、直面する危難から引き剥がさなければならない。


 「隙を見せたな、怪物め!」


 ミレッタの挑発に誘われて『百獣の王』は、今や無防備に横腹を晒している。そこに素早く躍りかかったのは、突剣を手にしたユーディットさんだった。彼女は、突剣を腰溜めに構えたまま魔獣に傍寄り、そして助走を加えた一撃を魔獣の心臓に向けて撃ち放つ。
 しかし、その瞬間、魔獣の尾でもある多頭の大蛇が身を起こした。それは、体躯を伸ばして刀身に捲きつくと、まるで熟練の騎士の受け払いのように、突剣の軌道を下方へと受け流したのだ。
 突剣は目標を見失って大地を穿ち、つんのめるようにして彼女も体勢を崩す。そして一転好機を失った呪術医に向かって、今度は逆に大蛇が刀身を伝って手元へと這い登り始めた。


 「ユッタ! 手を離……」


 危機に瀕した妹への兄の警告は、その全てが最後まで紡がれることはなかった。魔獣の口から発せられた猛炎が、まるで津波のように彼の元に押し寄せ、刹那の合間にその身を呑み込み、骨ばかりの軽い体をいとも容易く浚っていったのだ。


 「兄上ぇっ!」


 悲痛な叫びを発した呪い師の喉笛を目掛けて、魔獣の尾たる胴太の大蛇がその体躯を伸張させる。弓から解き放たれた矢のように一直線に獲物に飛び掛った暗殺者は、しかし牙を突き立てる寸前でその身を半ばから一刀両断に切り飛ばされた。
 宙を舞う蛇の上体は、まるで千切れたロープのように乾いた音を立てて地面に転がり、そして程なく動きを失う。砂に塗れたそれは抜け殻と見分けがつかなくなった。


 「ユーディット殿、無事でゴザルか!?」
 「ナガヤ……!? 私よりも兄上が……!」
 「だったら、ここはオレと先生が受け持つ! あなたは、ノワイトさんの救護に向かってください!」


 遅まきながら駆けつけたオレの顔を、彼女は実兄に良く似た切れ長の目で睨み付けてくる。彼女の瞳の奥に揺らぐ負の感情を意図せず覗き込み、オレは僅かに立ち居を竦ませる。醜態を見せた自分に対する苛立ちだけではない、これは明確な悪感情だなと、オレは心の中で舌打ちする。
 彼女の瞳に浮ぶ感情は、一言で言えば、不信感、なのだろうか。なぜか彼女は、オレに対してだけは、あからさまな敵意を露わにする。オレはその理由について何度か思案してはみたが、未だに納得の行く回答を見出せてはいない。
 彼女の眼差しは、オレ達が初めて出会った時、あのベッカー家の邸内で対面した時から全く変わっていない。ならば未だにオレは、冒険者を標榜するだけで身の伴わない大法螺吹き、とでも思われているのだろうか。或いは、病弱な兄を焚きつけて危険な行旅に挑ませた煽動家、とでも。
 彼女がオレを嫌う本当の理由はよくわからない。だが、その感情が邪魔をして、為すべき協調が果たされないとなれば、これは大きな問題だ。
 だから尚更の事、オレはこの窮迫した事態を打開し、オレ自身の力量を彼女にも認めて貰わなければならない。半人前の汚名を返上し、信頼を勝ち取るために、今は行動を示さなければならないのだ。


 「先生、長引けばオレ達が不利になる! 仕掛けるなら今しかない!」
 「しょ、承知したでゴザル!」


 ユーディットさんの返答を待たずに、オレと先生は魔獣に向かって走り出す。惰弱な人間の接近に気づいた魔獣は、怒気の炎の奔る双眸でこちらを見据え、巨大な舌を露わにして咆哮を浴びせかける。
 そして魔獣は、怨敵諸共に焼き尽くすべしと、紅蓮の息吹を盛大に吹きかけた。大地を焦がして宙を渦巻く灼熱の劫火は、まるで巨大な蛇のように、その身をうねらせながらこちらに向かってくる。


 「ベオ、伏せてっ!」


 紅蓮の大蛇に向かって、矢のように飛び込んできた人影。突如として彼我の合間に駆け込んだミレッタは、右手に掴んだマントを盾のように翳して猛炎の只中に身を躍らせる。


 「ミレッタっ!? 何をっ!」


 当然の如くマントは劫火に焼き焦がされて、端から灰へと転化していく。当たり前だ、あんな布切れ一枚で、怒涛の如く押し寄せる火勢の全てを凌げるものか。


 「ミレッタ、無茶だ! やめろ!」
 「でもベオを守れる! 無駄じゃないわ!」


 ミレッタは決して退く姿勢を見せなかった。髪を焦がされ、手足を焼かれ、遂にはマントを吹き飛ばされても、なおも頑なに炎風を阻む防壁であることを自らに課し続けた。
 先程ミレッタは言った。自分は囮を務めると。ミレッタは自らの身を呈して、オレ達に好機を与えようとしてくれているのだ。
 ならば、オレはミレッタの献身に報いなければならない。『百獣の王』を討ち果たさなければならない。それをオレは彼女と約束したんだから。オレは、オレの役目を果たさなければならないんだ。


 「ミレッタ殿の心遣い、決して無駄にはしないでゴザル!」


 先に動き出したのは先生だった。先生はミレッタの脇をすり抜けながら、その手に構えた無銘の刀で炎風を巻き取ると、今度は跳躍して白熱した刀身を魔獣の背筋に突き立てたのだ。
 まるで割れた大地から溶岩が噴き出すように、魔獣の背中に灼熱の火柱が立った。次いで平原を焼く炎のように、それは瞬時に魔獣の総身に燃え広がり、彼に狂飆めいた苦悶の声を上げさせる。


 「ベオ、騎士様の仇を討ちなさい!」


 ミレッタの声を受けて、オレは反射的に走り出していた。炎を纏って踊り狂う魔獣の姿を視界に捉え、両手で構えた剣を腰溜めに構えながら、オレは積怨と慈愛に満ち満ちた運命の全てに蹴りをつけることを彼らに誓う。


 フロースガルさんに。
 クロガネに。
 ……そして、『百獣の王』に。


 誰もが非望と相対することを恐れ、それが更なる惨事を呼び招いた。ならば、その運命の糸を断ち切れるのは、未来に待つ悲劇の重みを知らない第三者だけじゃないか。
 事実を知りながら、それでもなお、魔獣への止めを刺すことを厭わないオレは、自分で思っているよりも非情な男なのかもしれない。感情に任せて、仇討ちを成し遂げたいだけなのだとも。
 だから『百獣の王』。恨むなら、オレを恨め。あの人を憎まず、オレだけを憎め。
 あの人とお前の過去を知りながら、それでもあの人に肩入れするオレは、やっぱり公平な裁定者なんかじゃない。だから……


 「呪詛の限りを吐き尽くせ! 天を恨んだ分まで、全て!」


 接近する人間に気づいた『百獣の王』は、表皮の焼け爛れる苦痛に喘ぎながらも前腕を以って敵対者を打ちのめそうとする。しかし、その一撃は暴風のような鋭さを帯びてもいなければ、狂瀾のような圧力も備えてはいなかった。
 容易に魔獣の懐に飛び込んだオレは、『百獣の王』の脇腹目掛けて渾身の一撃を叩き込む。捻りを加えて、炎を巻き込んで、より効率的に体組織を破壊するための、杭打ちのような一撃を。
 異物を拒む筋肉の抵抗を許さずに、オレは満身の力を篭めて剣先を体内へと押し通す。心臓か、肺腑か、何を貫いたのかはわからないが、瞬間、魔獣の体が大きく痙攣した。


 致命傷を与えた。その確信がオレの腕に力を与え、勝利を確実にすべくさらに剣身を埋めていく。
 だが、手負いの獣は、炎に捲かれながらもなお戦局に抗った。『百獣の王』は、首筋を捻じ切らんばかりに折り曲げると、追撃に執心して無防備になったオレの右肩に、その巨大な鉄牙を深々と突き立てたのだ。
 安物の肩当が砕かれる音が脳髄まで響き、心胆が凍る。そして猶予なく襲ってきたのは、白熱した焼き鏝を直に押し当てられたような、目の眩むほどの激痛だった。


 「これが……! これがお前の呪詛ならばっ!」


 ならば、後は根競べだ。腕をもがれるのが先か、心臓を焼き尽くすのが先か。
 オレと『百獣の王』は、微動だにせず、ただ仇讐を果たすために余力を注いだ。傍から見れば、それは巨石から切り出した一組の彫像のように見えたかもしれない。


 だが、結果的にはそれが『百獣の王』の運命を決した。逃げることを潔しとしない王者の矜持か、或いは生存を等閑にする壊れた本能の発露が、彼の最期を宿命づけた。
 刀身を伝って炎熱が魔獣の体内を焼き焦がしていく。身を捻っても逃げ場のない残熱が、臓腑を熱し、溶かし、焼き焦がし、命の灯火を糸芯ごとまとめて焼き尽くすのだ。
 『百獣の王』は必死の抵抗を続けたが、臓腑を焼かれる苦痛に耐え切れず、やがて顎を解き放ち、苦悶の叫びを張り上げた。
 魔獣の発する咆哮は、今やあらゆる負の情念を内に掻き込んで、闇夜の嵐を思わせる轟きを辺り一面に響かせた。やがてその声は、焚き木を燃やし尽くした篝火のように次第に力を失い、そして、長く長く尾を引く哀切な叫びを最後に、遂に途切れて儚く消えた。