▼世界樹の迷宮3・その1(後編)

 忍の女と目があった。驚愕に見開かれたその目には恐怖の色が宿っていた。
 女は遂に自らの窮地を悟ったのだ。
 躊躇うことはなかった。足に力を篭めて二歩、三歩と踏み込み、そして上段に構えた鉄剣を女の肩口に振り下ろす。
 刃が肉に食い込む鈍い手応えが両手に重く響いた。


 「何を……! バカなことをっ!」


 喉の奥から搾り出すような女の声。
 オレは目前で起きた光景に絶句した。なんと先程まで昏倒していたはずの砲手の男が、自らの巨体を呈して女の身を庇ったのだ。


 「姉御、無事かぁ……!? 姉御にゃ指一本触れさせねぇかんな……っ!」


 長剣は男の背中に深々と埋まっていた。慌てて剣を引き抜こうとしてオレは困惑する。このまま押し切るべきなのか? それとも?
 どうする? オレはどうすればいい!?


 「もう十分でしょう……! ジェナン、剣を収めてください!」


 振り向けばそこには口を真一文字に結び、沈鬱な表情で首を横に振るツァオルゥの姿があった。
 ツァオルゥの声を聞いて、途端に全身から力が抜けた。思わず崩れ落ちそうになる膝を必死に鼓舞して立ち続ける。
 強張り震える両手を懸命に御しながら、男の背中からゆっくりと剣を引き剥がす。肉の剥がれる粘質の触感が手に伝わると、男の苦悶の声が一際高く鼓膜を叩いた。
 剣を引き抜くと、男は一度大きく仰け反って、そして床にその巨体を投げ出した。血の海に沈んだその男は一見事切れたようにも見えた。


 「オズレイっ! 死ぬんじゃない、オズレイっ!」
 「無益な殺生などさせません。それが山院の倣いです。」


 ピクリとも動かなくなった男にツァオルゥは身軽に傍寄ると、腰袋から膏薬を取り出して治療を始める。
 懸命に施療を続ける修行僧の少年と、呆然としたまま処置を見守る忍の女。先程まで矛を交えた者同士とは思えない光景だった。


 「なぜだ。なぜ、お前は……」
 「この男を見捨てて逃げられるほど、あなたは非情ではない。それが理由です。」


 女の呟くような問い掛けに対し、ツァオルゥは素っ気なく、しかし淀みなく答える。
 そう言えば、ヤツの言葉には思い当たる節があった。先程、煙幕を張った際、彼女は一人この場を脱することもできたハズなのだ。
 しかし、彼女は傷ついた砲手の男を担ぎ出そうとして折角の好機を逸してしまった。砲手の巨体を支えるには彼女の両腕はいささか細すぎたのだ。
 彼ら二人がどんな関係にあるのか、オレには分からない。
 でも、一つ確かなことは、ツァオルゥが砲手の治療に当たっている間は、忍の女はツァオルゥを害せないということだ。
 言わば、これは暴力を介した一種の取引だ。これ以上の争いが無益である以上、落とし所としてここが妥当だとツァオルゥは踏んだのだろう。


 「悪いけど、縄を掛けさせて貰うよ。」
 「好きにしろ…… 今更逃げを打とうとも思わん。」


 忍の女は騒動の顛末に脱力しているようにも見えた。
 しかし、彼女は冷徹な忍だ。意図して無抵抗を装っているのかもしれないし、唐突に変心しないとも限らない。砲手の男はツァオルゥに任せるとして、オレはオレの役割を果たすべきだろう。
 オレはベルトに結わえた麻のロープを解く。すると、けたたましい羽音を立てて先程の大鷲がオレの肩に捕まった。


 「痛ってぇーっ! 爪立ってる! 爪立ててるってお前!」
 「アトゥーサはね、縄なんていらないって言ってるわ。」
 「えっ?」


 視線を巡らせると、暖かな笑みを浮かべた獣使いの少女が傍寄ってきた。
 少女の勧め通りにロープを再び腰に結わえ直すと、アトゥーサと呼ばれた大鷲は羽を広げて再び宙に舞い上がり、今度は彼女の鳥の巣のような頭に止まる。大型の猛禽らしくさっきは結構な重みがあったが、彼女は意に介した素振りも見せない。獣使いの慣れ、なんだろうか。
 先程、彼女はオレを助けてくれたんだと思う。今も彼女は明確な敵意を見せてはいない。
 しかし、彼女は賊を庇うが如き言動を発している。これは一体どういうことなんだ?


 「君は…… こいつらの仲間なのか?」
 「その娘は私達とは無関係だ。たまたま居合わせただけの不運な娘だ。」


 意外なことにオレの問いに答えたのは獣使いの少女ではなく、忍の女だった。
 まぁ、獣使いの肩入れの向きから見ても忍の女の言葉に嘘はないように思える。仮に彼女達が仲間だとしても、獣使いは忍に裏切りを働いたことになるのだし、だとすれば尚更庇う理由がない。


 「あら、一緒に樹海に潜るって決めたのに、仲間外れなんて酷いじゃない?」


 しかし、獣使いの少女の返答は、忍の女の言葉を真っ向から否定するものだった。ようやく整理のついた彼女達の関係が再び霧に閉ざされてしまう。
 両者の言葉は明確で、しかし埋め切れない断層がある。オレは一体どっちの言葉を信じればいいんだ?
 狼狽するオレを他所に、忍の女は頭を振ると嘆息して口を開いた。


 「いい加減、茶番は終わりさ。お前ももう気づいているんだろう。私達が……」


 忍の女が何事かを言おうとすると、獣使いの少女の頭上に止まる大鷲がけたたましく翼をはためかせた。


 「うるさい鳥だ。……だからもうわかってるんだろう、私達がお前を樹海に放り捨てようとしたことぐらいさ!」


 そうか、新米冒険者とそれを狙った古典的な追い剥ぎ。やっと彼女達の関係にも合点が行った。
 おそらく単身海都を訪れた獣使いの少女は、共に樹海を探索する仲間を探していたのだろう。熟練の冒険者でもない限り、樹海は一人で歩き回れる場所ではない。
 賊どもはそこに付け込んだのだ。親身を装って彼女に接近して、そして亡き者にしようと企んだ。まったくもって外道の所業だ。
 だからやはり彼女は被害者なのだ。賊の仲間などでは決してない。
 ならば先程の助力は、ツァオルゥとの悶着で彼らの方便を見抜いたがゆえの行動だったのだろうか? オレは獣使いの少女の表情を窺う。


 「え、なに、聞こえない?」


 彼女の返答に忍の女は目と口を丸くした。多分、オレも同じ表情をしているのだと思う。


 「だから、私はお前を騙して……っ!」


 忍の女が再度口を開くと、呼応するかのように大鷲が羽翼をはためかせる。まるで女の声を遮るかのように。


 「なんなんだ、この阿呆鳥はっ!」


 そして忍の女が口を閉じると同時に大鷲ははためきを止めるのだ。もはや意図的に妨害しているとしか思えない。


 「ごめんなさい、アトゥーサは興奮しているみたい。どうしてかしら?」


 どこまでが演技で、どこまでが本音なのかさっぱりわからない。そもそも彼女が獣を操る術に長けているとして、言葉も通じない大鷲をそこまで自在に使役できるものなのか?
 それから忍の女は声を張り上げて何度も説明を試みたが、その都度、大鷲の激しい羽音で意思疎通は阻まれた。疲労困憊に達した忍の女が、一言呪詛の言葉を吐き捨てると、獣使いの少女は静かに口を開く。


 「わたし、樹海の最奥に行かなければならないわ。だから、仲間が必要なの。」


 先程までの柔らかな声音とはまるで違う、厳かで険しい口調だった。


 「自ら罪を認めれば私の首は明日にでも外門の柱に括られよう。ゆえに贖罪の機会を与えるとでもお前は言うのか。お前は聖人にでもなったつもりか?」
 「よく意味がわからないけれど、わたしはあなた達となら迷宮を踏破できると思っている。それだけの話よ。」


 鉛のように重い静寂が辺りに満ちる。忍の女の錐の如き鋭い視線と、獣使いの少女の仔馬の如き透明な視線が交錯する。互いが互いの胸奥を覗こうとするかのように、それは的を違わず無形の刺突となって絡み合う。
 無言の対峙はしばらく続いた。暇を持て余した大鷲が首を盛んに捻って辺りを見回すが、二人は瞬き一つ挟まない。


 「……こんな小娘に情けまでかけられる。不甲斐ない身に成り下がったものだな。」


 先に根負けしたのは忍の女だった。彼女は獣使いから目を逸らすと共に小さく声を漏らし、嘆息した。


 「私は忍だ。我を殺すからこそ忍は忍なのだ。……いいだろう。私が失った矜持を取り戻すまで、しばらくお前と付き合おう。」
 「本当に……!? ありがとう! ……その、あの。」
 「……イヌギリだ。」
 「ありがとう、イヌギリさん! わたしはスーリヤウナ!」


 余りにも率直な少女の反応に苦笑さえ浮かぶ。彼女の叶えた願いはささやかながら、その喜びようはまるで波打ち際ではしゃぐ子犬のようにも見えた。
 だが、次いで腹の冷える疑問が首を擡げる。イヌギリと名乗った忍の女は口でこそ協力を約束したが、果たしてどこまで本気なのだろうか。隙を見て彼女……スーリヤウナの寝首を掻き、一切をご破算にするくらいの策謀は既に練っているのではないか。
 彼ら忍は徹底した現実主義の体現者なのだ。世界樹の迷宮の踏破などという、幼児が描き殴った絵物語に正気で挑むとは到底思えない。


 「だったら簡単な話ですよ。君も同行すればいい。」


 突然の声にオレは慌てて背後を振り返る。砲手の治療を終えたツァオルゥの姿がそこにはあった。


 「目を光らせて見張っていれば、おいそれと悪さはできません。それにギルドを抜けたと言ったからには君は自由な身の上なんでしょう? ちょうどいいじゃないですか。」
 「いつから坊主は冒険者の斡旋業にまで手を出すようになったんだ。布施だけで飽き足らず仲介料までふんだくるつもりか。」
 「人の縁を繋ぐのは僧職の務めです。あ、喜捨は心ばかりで構いません。」


 涼しい顔で抜け抜けと言ってみせるツァオルゥに、オレは拳骨の一発でも報謝してやりたくなった。


 「それはそれとしてだ。お前、坊さん連中にはなんて報告するつもりだよ。経典は偽物でした、で済む話なのか?」


 話がおかしな方向に逸れそうな雰囲気だったので、オレは本来の目的に水を向けた。頭の痛い問題だったと見え、ツァオルゥは渋面を浮かべて話柄に応じる。


 「まさか! それだけで済むはずがない。これは開山以来最大の不祥事ですよ。信仰が揺らぐ瀬戸際に僕達は今立っています。」


 先人のありがたい教えとして伝えられてきた経典が偽物だと知れたら、僧院の混乱たるや計り知れないものがあるだろう。部外者にはイマイチ実感が沸かないが、それこそ天地が引っ繰り返るような大事なのかもしれない。


 「困ったことに僕自身も信仰の拠り所をどこに求めるべきか迷っています。どうしたものかと。」


 ツァオルゥが弱音を吐くとは意外だった。意志の強いヤツだと思っていたが、存外に脆いところがあるものだ。


 「で、どうする? 新しく偽物でも誂えるか?」
 「それで山院を納得させたとしても、僕は自分の心を騙せそうにないですよ。良心の呵責で自失してしまうかもしれない。」


 なんというか、考え方が極端に過ぎる。坊主ってのはみんなこんな連中なのだろうか。


 「だからね、僕は決めました。宝経が失われたのであれば、それに代わる新たな経典を求めるしかないとね。」
 「どこにあるんだ、そんなもんが。」
 「樹海、ですよ。アーモロードはかつて山院の本山があった土地です。100年前の大地震で地中に没してしまいましたが、ひょっとしたら蔵の幾つかが残っているかもしれない。」


 ツァオルゥの話によれば、元々、大陸に散った山院の諸宗派はこの海都アーモロードで修養を積んだとある高僧に起源を発するのだそうだ。山院の宝典とされた百篇の経典は、その高僧の教えを山院の開祖が写経したものだそうだが、ツァオルゥはさらにその原本を樹海の奥から引き上げようとしているらしい。


 「そりゃまた楽天的な発想だな。」
 「それしか縋る縁がないとも言います。だから僕は彼女達と一緒に樹海に潜るつもりですよ。」
 「なっ!?」


 さすがにこれには驚いた。やむにやまれぬ事情があるとは言え、先だって命のやり取りをした相手と轡を並べるなんて命知らずもいいところだ。
 冒険の共柄は時間を掛けて吟味すべきだ。冒険者は目的地を等しくするだけの旅行仲間じゃないんだから。
 仲間が欲しいなら冒険者ギルドだってある。口の悪い、しかし世話焼きのギルド長なら、適当な道連れを見繕ってくれるハズだ。
 パーティは互いが互いの命綱を握り、その命運を等しくするのだ。仲間の命を預かる責任があるか? 仲間に命を預ける覚悟があるか? 信頼関係が成り立たない限り、安易に合同を計るべきではない。そもそも相互の信頼関係を成熟させるには……


 「もちろん、同道を許して貰えればですがね。……いかがです?」
 「こちらこそお願いします。よろしく!」
 「地獄に落ちろ、毛坊主が。」


 ……そんなことをつらつらと考えているうちに、ツァオルゥはオレの肩越しに承諾を求めて了解を取り付けてしまう。若干、物騒な声が混じっていたような気もするが。


 「……とまぁ、了承は頂きました。」
 「お前、耳が悪いんじゃないか? いつか後ろから刺されるぞ。」
 「……危険なのは僕よりもむしろ彼女ですよ。」


 先程までの穏やかな語り口から一転し、ツァオルゥは不意に声を潜める。その視線の先には獣使いの少女の姿があった。


 「まさか彼女が賊と同行するとは思いませんでした。結縁は僕にも一片の責任がありますが。」
 「お前、やっぱり連中を警戒して……?」
 「罪を憎んで人を憎まず。先んじて色眼鏡で見るのは先人の教えではありません。しかし、人の心は移ろいやすいものですし、彼らが道を間違えた時、正しい道を示すのも僧職の役目ですからね。」
 「難儀なもんだな、修行僧ってのは……」
 「だからこそあなたにも相伴して貰いたいのですよ。重ねて言いますがね。」


 先ほどは強引に返答を避けた要請をツァオルゥは再びぶつけてきた。いい加減、今度ばかりは明確な回答を示さないといけないのだろう。


 「ツァオルゥ、オレは……」


 オレは自分の心に問い掛ける。彼らと世界樹の迷宮を巡るべきか、否か。
 常識的に考えればこれは断るべき提案だ。それはわかりきっている。
 樹海の危険と相対した上で身内に不和の種を抱えて、それで無事に探索など遂行できるものか。樹海はそんな甘えが許される空間ではないし、何より長らく樹海から離れていた自分は確実に彼らの足枷になる。


 「え、あなたも探索に参加してくれるの!?」


 男同士、何やら密談に耽っていたのが気になったのだろうか、矢庭に獣使いの少女が首を差し挟んでくる。これはちょっと面倒な事になった。
 ……そう、オレが即座に否を唱えられなかったのは、多分にこの獣使いの少女、スーリヤウナの存在がある。


 「いや、彼は臆病なので過度の期待は止した方がいいです。それに薄情な人間ですしね、昔から。」


 ったく、いい加減な事を言いやがって、この浮かれ坊主。仮にも聖職にある人間が嘘までついて人を貶めるなっての。
 いやいや、これはコイツ流の勘気を誘う作戦なんだ。乗せられちゃいけない。冷静に、冷静に……


 「そんなことないわ!」


 自制を遮って否定の声を高くしたのはスーリヤウナだった。オレもツァオルゥも意外な人物からの反駁に呆気に取られている。


 「だって、あなたは籠に閉じ込められた鳥と同じ目をしている。いつか大空に舞い上がる夢を瞳に滾らせて……!」
 「君は、何を……!?」
 「……そして、誰かが扉をこじ開けてくれる瞬間を待っている。」


 心臓をナイフで抉り抜かれたような衝撃。オレは反駁の言葉を失ったまま、彼女の金色の瞳を見つめ返すことしかできなかった。


 「あなたは聡明な人。だからこそ踏み出すことを躊躇している。」
 「そんなんじゃない。オレはただ……」
 「樹海の深奥に辿り着く。それってきっと、私が思っているよりずっと難しいことなんでしょうね。」
 「……そうだな。決して一人じゃ為しえない難行だ。」
 「だからあなたは一人立ち止まっている。でも、それは私も同じ。」
 「オレと同じ……?」
 「ええ、私達は同じなんだと思う。立場も、願いも、不安も。でも、だから仲間を探している。信じあえる、仲間を。」
 「……」
 「私は、あなたの力になってみせる。だから、お願い、私に力を貸して……!」


 そう言って彼女は長い睫毛に縁取られた金色の瞳を伏せる。
 卑怯だ、と勝手ながらオレは思った。
 色々と言いたいことはあった。でも、こんな頼み方をされて無碍に断ることなんかできやしない。


 「ジェナン、君も本当は冒険を望んでいるんでしょう?」


 駄目を押すツァオルゥの問いかけ。もはやオレには隠し通せるものはなかった。


 「……ああ、違わないさ。その通りだよ……! オレだって世界樹を踏破したいって思ってる……っ! ずっとそうだ! 子供の頃からずっと! ずっとずっとずっと! ずっとそれだけを願ってたんだ!」
 「本当に……?」
 「嘘なんかつくもんか! だから……っ!」


 君と同じ道を歩きたいんだ……! そう叫びたかったのに、言葉が出なかった。舌が空転して音を結ばなかった。
 彼女はそっとオレの右手を両手で包む。これから樹海に挑もうとする人間にしては不釣合なほど華奢でしなやかな指だった。


 「ありがとう……!」


 雛菊が咲いたような彼女の笑顔を見て、やっぱり卑怯だよな、とオレは思う。でも、仕方ない。帰趨はとっくに決まっていたんだ。


 『世界は光に満ちている』


 スーリヤウナの言葉にオレは気づかされたんだ。彼女と一緒ならオレは再び樹海に挑めるかもしれないと。
 もう一度だけ、オレは樹海に挑みたい。冒険者としての勇気と矜持を取り戻したい。


 「よろしく、スーリヤウナ。」
 「よろしく、ジェナン!」


 そして、できることなら彼女の…… スーリヤウナの願いを叶えたいのだ。海床を貫いてなお深淵に沈む『世界樹の迷宮』を踏み越えて。