世界樹の迷宮2・その0の4

 レンジャー♀ ミレッタの記憶


 その日の『鋼の棘魚亭』は坑道入り口脇の沼地を想起させる湿った陰気に満ちていた。獣脂の蝋燭に照らされた店内がぼんやりと薄暗いのはいつもと同じ光景なのだけれども、日頃騒々しい酔漢達がまるで通夜の会場に列席しているかのように粛然と杯を啜っているのがどうにも奇妙な雰囲気だ。
 どうも面倒なタイミングで足を踏み入れてしまったようだ。アタシは小さく舌を打つ。


 短慮な野良烏同士の諍いが殺傷事件に発展すると、始末が終わった後の酒場は大体こんな雰囲気に包まれる。屯している連中は皆、熟柿のような匂いを発しながらも、目にはぎらぎらとした好奇の光を湛え、声を潜めて無責任な憶測を語り合う。時には加害者と被害者のどちらかに過剰に肩入れして、「オレも仲間にナイフの一突きをくれてやりたいぜ」なんて物騒な言葉さえ飛び出すこともある。


 手の内の酒杯に注がれた連中の視線は定期的に現場を目指して飛び跳ねる。その行き先を探ってみると、どうやら事件は酒場の中央で起きたらしい。
 しかし、現場であろう樫のテーブルには一組の冒険者が着席し、落ち着いた様子で何事かを話し込んでいる。すると、事件は既に解決し、後処理は迅速に行われたのだろう。店員も澄ました顔で何も知らない不運な客を惨劇の場に招待したに違いない。
 でもちょって待って。何かがおかしい。胸中に芽生えた微かな違和感が未だに拭いきれていない。
 なぜ、酔客はこそ泥の密談よろしく、声を潜めて歓談を続けているのだろうか。騒乱の気配が静まって、無責任な放言を許された今にあっても、彼らは領主を目の前にした農奴のように肩を縮こませて、落ち着きなく体を揺すっている。
 ひょっとして事件は解決を迎えたんじゃなくて、未だ進行中なんじゃないだろうか。そう思いながら酒場の中央に陣取る冒険者2名に目を凝らすと、彼らの奇妙な装束がアタシの疑問を確信に変えた。


 「あれ……?」


 その時だった。アタシの脇を擦り抜けて店内に足を踏み入れたベオが不意に頓狂な声をあげる。まるで床に仕掛けられた罠を窺うような真剣さで、ベオは自ら踏み出した右足をじっと凝視し、眉を顰めて小首を傾げる。
 次の瞬間、ベオはまるで後ろから突き飛ばされたかのように不自然に前に歩み出て、そして酷く動揺した表情でこちらを顧みた。


 「ちょ、ちょっと! なんだ!? なんだこれ!? ミレッタ、これは……!」
 「ベオ殿!」


 ベオの肩を掴もうとするナガヤの手が虚しく宙を切る。ベオは後ろを見返りながら手と足をぎくしゃくと動かし、まるで手操り人形のような奇妙な格好で酒場の奥へ歩みを進める。


 「ちょっと、どうしたの……!? ベオ!」


 トレイを片手に徘徊する給仕を寸身で避けながら、アタシ達は小走りにベオを追いかける。ようやく彼の肩を掴んだその瞬間、糸を緩めた手操り人形のようにベオの体が弛緩する。操り手を失ったベオは、踊り子のようにその場でくるりと爪先で回転すると、木製の丸椅子にぺたんと腰を下ろした。


 「ごきげんよう。」


 振り返るとそこにはフードを目深に被った黒衣の男の姿があった。肩口からまるでショールを羽織るように赤錆だらけの鉄鎖を纏い、胸元には大振りな金色の鈴を揺らし、フードから覗く唇は緩やかに綻んでいる。
 男の傍らに控えているのは、飾りの少ないシックなドレスを纏った女性だ。古めかしいとんがり帽を目深に被り、こちらも表情は窺えない。
 アタシは不意に周囲から集う視線の存在に気づいた。振り返ると蜘蛛の子を散らすような早さで彼らは目を逸らし、空になった酒杯を呷ろうとして慌てふためく。
 気づいてみればアタシ達は酒場の中央に佇んでいた。……いつの間にかアタシ達は傍観者から主役に立場を転じていたのだ。


 「驚かせたことは謝ろう。とは言え、それも君達を招くのにこれが最適な手段だと確信したからだ。理解してくれたまえ。」


 言動とは異なり、男の態度からはまるで謝意が窺えない。むしろ感謝しろ、と言わんばかりの尊大さが内から滲み出ているようにアタシには感じられる。
 そして、この居丈高な口調で紡がれる生気のない声音にアタシは耳覚えがある。それはつい先日、初めて足を踏み入れたとある邸宅の住人が発した声だ。


 「久方ぶり、というには早すぎるかな。壮健でなによりだ。」


 男がフードを手で払うと、幽鬼もかくやと思わせる青白い顔が現れる。ベッカー家当主代理の肩書きを持つこの男は、名前を確かノワイトと言った。
 そして、ベオが突如として五体を操られた不思議な現象は、どうやらこの男の仕業だったらしい。一体どんな手品を用いたのか知らないが、人を謀るにも程がある。


 「ノワイトさんもお変わりない様子で安心しました。」


 ベオは、この薄気味悪い男と暢気に挨拶を交わす。……というか、むしろこの男に関しては、日頃が健常なのかを疑った方がいいようにも思うのだけど。


 「さぁ、君達も腰を落ち着けるがいい。」


 テーブルの前で未だ立ち尽くしていたアタシとナガヤは、その言葉で呪縛を解かれたように我を取り戻すと、いそいそと席につく。


 そもそもこの場は、冒険の進捗(と言っても要は仲間集めだ)を確認するためにこの骨張った男が場所と時間を指定して設けたものだ。ベッカー家との仮契約状態にあるアタシ達…… じゃなくてベオとナガヤにとっては、現状を報告し、正式な契約を取り交わすための大切な機会だった。


 「そちらの御仁の紹介をお願いできるかな。」


 彼ら武士道の故郷には椅子に腰掛ける習慣がないそうだ。小さな丸椅子の上でもぞもぞと落ち着きなく体を揺らすナガヤに視線を配し、ノワイトは呟くように問う。


 「あ、はい。せんせ……あ、ナガヤ先生は東方から伝わる一子相……」
 「ただの流れの武士道です!」


 アタシは慌ててベオの言葉を遮る。ったく、このバカはまだ夢から覚めてないっていうの!?
 そもそもの質問を投じたノワイトは、そうか、とだけ呟き、それきり興味を失った様子だった。対するナガヤは背を丸くしてちょっとしぼみ気味だ。……だって、本当のことじゃない!


 「良き冒険には良き仲間が要る。信服に値する仲間を見つけられたのは幸いだ。」


 ナガヤを肯定する発言がノワイトの口から紡がれるが、それはまるで熱意の篭らない空虚な声音だ。まぁ、この頼りない武士道のツラを見て全幅の信頼を置けるなら、むしろアタシはそれこそ頭がどうかしてるんじゃないかと思うんだけど。
 とは言え、ノワイトの言葉を素直に受け取ったベオだけは喜色を満面に浮かべていた。


 「じゃあ、援助のほうは……」
 「無論だ。予ての約定どおり、ベッカー家は君達の冒険に協力を約束しよう。」


 ベオは拳を握り、小さく快哉を上げたが、まだ喜ぶには早すぎるとアタシには思えた。ベッカー家からの資金提供には幾つかの条件が付随していたはずだ。
 1つは樹海を探索するメンバーを3名以上集めること。ベオとナガヤとそして…… ああ、もう! そして…… 一応、アタシ。
 改めて断っておくけれども、あくまでアタシは数合わせとしてこの場に参加しているだけで、本格的にベオの道楽に付き合う予定なんてさらさらないのだ。冒険者なんてみんなロクなもんじゃないし、何よりあの酷薄な男にヘイコラ頭を下げて毎日を過ごすなんて考えるだけで怖気が震う。
 ベオは、樹海の恐ろしさを知らないのだ。熟練の冒険者だったベオの父親でさえ命を奪われた樹海の真の姿を。だからアタシは、早くベオが目を覚ましてくれればいいと思う。樹海の素顔に気づいて、向こうとの境界を跨ぐことを諦めてくれればいいと思う。
 アタシは、そのためにベオに介添えしているのだと言っても過言じゃない。ベオの冒険をバックアップするんじゃなくて、ベオが考えを改める時間を稼ぐのがアタシの役割だと思っている。自分自身の五感で樹海の空気に触れれば、きっと、ベオも目指すべき頂きの険しさに気づくことだろう。


 ……話が逸れた。仲間を集める以外にベッカー家から提示された条件はもう一つ。それはベッカー家から監視と進捗管理を目的とした使者を同行させることだ。そして、今日の会合ではその同行者が会席するという話だったのだが、今のところそれらしい姿は見えない。
 アタシは隣席のベオに目配せする。ベオは小さく頷いた。……ちゃんとわかってんのかしら。


 「ベッカーさん、一つお伺いしたいことがあります。」
 「その呼び名は些か他人行儀に過ぎるな。私のことはノワイトでいい。」
 「ですがベッカーさん。」
 「ノワイトだ。」
 「……ノワイトさん。」
 「そうだ。共に樹海を歩く者にとって妙な遠慮は邪魔なばかりか害悪となる。相互の協力を図るために須らく垣根は取り払うべきだ。私達はその努力を怠ってはならない。」


 何気なく紡がれたその言葉をアタシは危うく聞き流すところだったが、言意を反芻すると慌ててノワイトを直視する。
 ちょっと待ってよ! それって同行者はノワイトさん自身ってこと!? ありえないでしょ、そんなの!
 とは言え恐らくはベオも同じ疑問を抱いたはずだ。アタシはベオに抗議するように視線で訴えかける。


 「確かにそうですね。……あ、オヤジも同じことをよく言ってました!」
 「……って、頷くところじゃないでしょ、それ!」


 ベオは質問を一言も発することなく、舌だけはよく回るこの男にあっさりと丸め込まれてしまった。まったく交渉事に関して、ベオの対応は余りにもお粗末で、疑問を解決するどころかさらに質疑を要する発言を引き出している。
 とにかく、ベオに任せておいてはいつまで経っても話が進展しない。こうなったら仕方ない、アタシが切り出すしかないようだ。


 「ちょっと待ってください、ベッカーさん!」 
 「ノワイトだと言っている。」


 アタシは氷のような冷たい視線に射竦められ、一瞬声を失った。この男の拘りがアタシにはイマイチよくわからない。


 「えー、ノワイトさん。どうもなんだかアタシの耳にはですね、ノワイトさんが冒険に同行すると。そう仰ってるように聞こえるんですけども。」


 樹海産のキノコでも食べたのか、とでも言いたげな眼差しでベオがこちらを見ているのに気づく。うっさい、誰のせいだと思ってんのよ、誰の!


 「……どうも誤解を与えてしまったようだな。これは済まない。」


 その言葉にアタシはホッと胸を撫で下ろす。妙な装束を纏っているのでまさかとは思ったのだが、多分、あれは人目を避けるための彼なりの工夫だったのだろう。いや、結果的には逆にこれでもかとばかりに周囲の視線を集めてはいたけども。
 何にしても、パトロン本人が同行する冒険なんて常識的にはありえないのだ。何のために彼らが報酬を支払うのかと言えば、それは当然、冒険者連中に危険を肩代わりさせるためなんだから。
 時折、首を突っ込んで冒険者の真似事をしてみたがる酔狂なパトロンも中にはいるらしいが、そういった手合いは当然ながら探索に要する生存術の初歩も身につけていないので、結果的には足手纏いになるだけだ。冒険心のみが先走るパトロンは全く以って百害あって一利ない。
 何よりも、基礎体力に著しく欠ける彼のような人種が冒険に挑むなど、それこそ赤ん坊が登山を志すぐらい無謀な行いだ。まぁ、彼は肉体的には貧相であっても学はあるようなので、自分の適性ぐらい心得ているだろう。
 ……しかし、この男の次の発言は、そんなアタシの想像を遥かに超越する一言だったのだ。


 「冒険に同行するのは、私だけではない。妹もだ。」
 「今、なんて……?」
 「私の妹もまた冒険に同行すると言ったのだ。誤解を与えたようで申し訳ない。」


 油の切れた扉のようにぎくしゃくと首を巡らして、アタシはノワイトの脇に座する寡黙な女性に視線を移す。常に兄の傍らに控える彼女は今日も変わらず定位置を占めていた。


 「……名前を。」
 「ユーディットです。よろしくお願いします。」


 まったく感情の篭らない、淡々とした声音だった。多分、両親も似たような喋り方をするんだろう。片方か、それとも両方か、そこまではわかんないけど。


 「彼女は本草学に通じた呪術医だ。彼女の知識と技術は冒険の一助となろう。」
 「そうか!」


 突然ベオが立ち上がり、宝物を探し当てた冒険者のような喜色に満ちた瞳でノワイトを見据える。


 「苗字で呼んだら、どっちがどっちか判断がつかない!」


 どうでもいいことに得心するベオにアタシは改めて腹が立つ。今はそんなことを問題にしているんじゃない!


 「左様。妹のことはユーディットと呼んでくれ。」


 兄のその言葉に反応して、妹の目に微かな嫌悪の影が浮かんだ…… ように思えたのは、アタシの気のせいだろうか。


 「ユーディットさん、よろしく!」


 ベオの挨拶にユーディットは僅かに眉を顰めた。まぁ、今のベオのテンションが気に障るのはアタシにも分かる。
 とは言え、ベオがやたらと元気なのは、冒険に出立するための算段がこれで整ったためなのだろう。アタシとしては、この富裕階層2名が冒険に同行すると聞いて、むしろ出発点が遠ざかったようにも感じるんだけど。
 この2人は明らかに冒険者としての適性にも経験にも欠けている。ベオに冒険を諦めさせるための僅かな旅程の間だとしても、こんな連中に命を預けるのは正気じゃない。庭園に誂えた造園の迷路と天上まで伸びる世界樹の迷宮を一緒くたにされては困るのだ。


 「ユーディット殿、拙者もよろ……」
 「納得できないわよ!」


 胸郭を満たした憤懣が声に如実に現れたのだろう、列席する全員がこちらを振り向いて静まり返る。しかし、ノワイトだけは自らのペースを崩さず淡々と言を紡ぐ。


 「監視と進捗管理を目的とした同行者の派遣。これは条件と矛盾しないはずだが。」
 「それは、そうだけど……! でもそんな話、聞いてないわ!」
 「ああ、当然ながら畏まった遠慮は無用だ。同輩として適切な態度で接してくれればいい。」
 「だから、そうじゃなくて……っ!」


 この男はなかなかに手強い。まるで水面を射ているように手応えがない。
 ベオもある意味では似たような雰囲気を持っているが、いざとなれば力づくで押し切れるのが異なるところだ。この男は一応の出資者ということもあって、強硬な手段に出にくいのがやりづらい。
 とは言え、ここで怯むワケにもいかない。こちらは命が懸かっているのだ。アタシは意を決して声を張り上げる。


 「監視が必要なら、相応の冒険者を手配してよ! 素人とヘタレに足手纏いまで加えて、それで樹海を歩けるって思ってるの!? 無理心中なんてアタシは真っ平ゴメンだわ!」
 「確かにオレは素人だけどさ……」
 「ヘタレって、拙者でゴザルか……?」
 「うっさい! 黙ってて!」


 反論を紡ごうとした男どもを黙らせると、アタシはノワイトに向き直る。眼前の男はさしたる感銘も受けた様子もなく、ゆっくりと口を開く。


 「それは、私達が冒険の用に立たないということか?」
 「それ以外にどう解釈しろっていうのよ!」
 「ならば無用な心配だ。妹は、生薬の採取のために日頃から足繁く樹海に通っている。君達の手を煩わせることはない。」
 「じゃあ、そういうアンタはどうなのよ!」
 「先程見せただろう。」
 「何をよ!」
 「……呪術を。」


 顔面の筋肉の全てが強張るのを感じた。
 呪術。忌わしき外道の法術。呪言と鈴の音を用いて人の心はおろか、魂までも自在に操るという穢れた奇跡

 ノワイトは、この男は、その禁忌の力を行使したと、そう言うのか。


 「私は、ベオ君をこの席に招いたのだ。」


 そして、それ以上のこともできる、と彼は暗に仄めかしている。先程の不可解な一幕が脳裏に蘇り、背中を冷たい汗が伝う。
 熟練の呪い師は、敵対する者の腕を操り、自刃に追い込むことさえ可能なのだという。この男が呪い師としてどれだけの力量を備えているかはわからないが、そんな凶暴で無節操な力の支配下に既にベオは置かれているのだ。この男を刺激するのは得策ではない。


 「同行を許し願えるかね。」
 「好きに、したらいいじゃない……っ!」


 アタシは勝利の愉悦に染まっているであろうノワイトの顔を直視できなかった。ただ、膝の上で固く握リ締められた両手を見つめていた。


 悔しかった。ベオを守れなかったことが。
 腹立たしかった。ベオを止められなかった自分の不甲斐なさが。


 樹海に足を踏み入れればベオも目を覚ますだろう、なんて悠長な選択を試みた自分のバカさ加減にはほとほと怒りを覚える。もっと早く、あの呪い師に会わせる前に、アタシはベオの頬を引っぱたくべきだった。アイツがどれだけ危険な場所に踏み込もうとしているのか、納得するまで言い聞かせるべきだったんだ。
 多分、ベオは抗弁するだろう。それでもアタシは、身を張ってでもアイツを止めなくちゃならなかったんだ。でも、今はもう遅すぎる。もう、歯車は動き出してしまったのだから……


 「ベオ君、君は私を軽蔑するかね。」
 「いえ。オレは未だ試される立場ですから。」
 「君の寛容さは感謝に絶えがたい。稚気もこれで最後だ。共に樹海の深奥を目指す立場となったからには、私の力は君に敵する者にのみ行使することを約束しよう。」


 そんな口約束など信用できるものか! この男は、ベオの知らぬ合間に呪術の網を投げかけ、そして一時はベオを意のままに操ってみせたのだ。
 呪い師の口から発せられる言葉は、真実であっても、嘘であっても、その全てが呪言なのだ。そうやって呪い師は、相手を網に絡めとり、麻痺毒を注入し、内側から身体を溶かして食い尽くす。まるで南国の大蜘蛛が巣にかかった蝶を貪り食うように。


 「……何が、目的なの?」


 震える声でアタシは尋ねる。返事はない。


 「何が目的なのかって聞いてるでしょ! 答えなさいよ、この……っ!」


 立ち上がって呪い師の胸倉を掴もうとしたその瞬間、アタシの喉先に真白に輝く剣先が煌く。視線を転じればそこには小剣を引き抜いたユーディットの姿があった。


 「あなたは……! 兄上に不遜な口を利くばかりか、危害まで加えようというのっ!?」


 先程までは顔色一つ変えなかった蝋人形のような彼女が、今や頬を紅潮させて双眸を怒気に燃やしている。
 青褪めた自分の表情を鮮明に映し出す白刃を見下ろしながらアタシは確信する。これは威嚇じゃない。刃から滲み出るこの熱気は…… 憎悪だ。


 「剣を収めたまえ、ユーディット!」


 呪い師の号令がかかると、まるで訓練された兵卒を思わせる機敏さでユーディットは小剣を鞘に収めた。アタシは高鳴る動悸を落ち着けようと唾を飲み込む。


 「ミレッタ! 怪我はないか!?」


 肩に添えられたベオの手の温もりが、恐怖に震える体に暖かさを与えてくれる気がした。喉元をそっと拭ってからベオに向かって無言で頷いてみせると、ベオはようやく安堵の表情を浮かべる。
 それからベオは表情を正すと、いつにない剣幕でノワイトに食いかかった。


 「ノワイトさん! オレは冒険者としては全くの駆け出しだ! だからオレを試したいなら幾らでも試せばいい! だけどな、ミレッタには手を出すな! ミレッタは、ただの……っ!」
 「いいの!」


 ……ミレッタは、ただの友達だ。


 アタシはベオの言葉を遮る。ベオにその言葉を紡がせたくなかった。
 ベオがそれを告げてしまえば、アタシは彼らの蚊帳の外に置かれる。アタシがベオと共にいる理由がなくなる。ベオを守ることができなくなるのだ。だから……


 「アタシは、冒険者だから……! ベオの、仲間なんだからっ!」
 「ミレッタ、お前……!」


 冒険者なんて、バカで、アホで、間抜けで、下品で、ロクデナシで、恥知らずで、命ばっかり粗末にする、救いようもない連中だ。そんな連中に憧れるベオの気持ちなんか、アタシには正直わからないし、わかりたくもない。ベオにはもっと真っ当な道を歩んで欲しいと今でも思っている。


 「いいのか、ミレッタ……?」
 「アタシが選んだの! アタシが決めたの! 冒険者になるんだって!」


 だけど、冒険者でなきゃベオの隣に立てないのなら。冒険者でなきゃベオを守れないのなら。
 だったらアタシは冒険者になってやる。バカで、アホで、間抜けで、下品で、ロクデナシで、恥知らずな…… だけど仲間の命だけは守り通す、そんな冒険者になってやる。
 それがアタシの償いだ。ベオを止められなかったアタシの償いなんだ。




 「妹の非礼は私が詫びよう。些か野蛮に過ぎる振る舞いだった。」


 ベオに促されて席につき、運ばれてきた温かいミルクを胃に流し込んで、それでようやくアタシは人心地つく。ノワイトの声が鼓膜を叩いて脳に到達し、その意味も解することができた。
 頭に血が上っていた時は、視界全てが真っ赤に染まっていたような気がする。自分の身に何が起きたのか、自分が何を口走ったのか、それはハッキリ覚えている。
 だけど、そう、例えば、ナガヤがどんな間抜け面で事態を見守ってたのかとか、そういう回りの事情は全然目に入ってこなかったし、記憶にも残っていない。まぁ、別に知りたくもないけどさ。


 「目的は何か、と君は問うたね。」


 そんなこと言ったっけ、とアタシは首を傾げてから得心する。ああ、そう言えば、そんな問い掛けをした気がする。


 「私の目的は、君達と同じだ。『諸王の聖杯』の発見と入手。それに尽きる。」


 つまり、それさえ果たせれば、ベオとこの男を引き離せるということだ。そしてベオに利用価値がある限りは、この男も乱暴な手段には訴えないだろう。
 すべて男の思うままに事態は推移しているような気もしないではないが、それも仕方ない。全てはベオの身の安全のためだ。
 身の安全、という言葉を反芻してアタシは心の中で吹き出す。それもおかしな話だ。アタシ達が向かおうとしているのは、世界で最も危険で深遠な世界樹の迷宮なのだから。


 「わかったわ。『諸王の聖杯』。それがアタシ達の目的ね。」


 気楽な考え方をすれば冒険の途上でノワイトが探索を諦める可能性だって少なくはないのだ。幾ら呪い師と言えども、自らの身が危険に晒されるのを快くは思わないだろう。場合によっては彼自身が真っ先に命を落とす危険性さえあるのだし。
 逆に考えれば、それだけの危険を冒してなお彼が行旅に同行しようとするその理由とは、一体なんなのだろうか。誰もが真っ先に思いつくその疑問について、アタシは今の今まで頓着していなかった気がする。余りにも予想外の出来事が多すぎたのだ。
 まぁ、それがこの男のやり口なのかもしれない。呪い師とは舌先の魔術師。観客を煙に巻いて、そして自らの真意を覆い隠すのだ。




 「さて、これで私達は、樹海の謎に挑む探求者の一群としての体を為した。」


 確かに人数は揃ったかもしれない。しかし、その内実はどうだろうか。
 能天気な剣士、臆病な武士道、非道な呪い師、偏屈な呪術医、そしてアタシ。どこにでもいる地味な野伏。
 こんな寄せ集め連中を『探求者の一群』などと称するのは身贔屓にも程がある。この面子で樹海の踏破を試みるのだと公言したら腹を抱えて笑われるどころか、正気を疑われるのがオチだ。


 「そこで、私から祝いの品がある。」


 呪い師が供する祝いの品など性質の悪い冗談だ。戦地に赴く兵士向けの送別詩でもプレゼントしてくれるのだろうか。
 ノワイトは懐から一枚の紙片を取り出し、テーブルの上に広げる。一目でそれとわかる上質な羊皮紙だった。


 「ギルド設立に要する契約書だ。各自、名前を書き込んでくれたまえ。」


 そう言って押し出された羊皮紙に、次いでユーディットがインク壷と水鳥の羽根ペンを添える。ペンを手にとったベオは意気揚揚と紙面に取り組み、軽快な筆記音を立てて自らの名前を記し始めた。


 「新規の登録は審査に時間がかかるため、知人に既存のギルドを都合して貰った。多少の不都合はあるかもしれないが、我慢して頂きたい。」
 「軒を借りるのでゴザルか?」
 「いや、そのギルドは既に活動を停止している。メンバーは皆、樹海で果てたのだ。」


 アタシは、息を飲んだ。呪い師は淡々と言いのけてみせたが、それが世の冒険者のありふれた顛末だということを忘れてはならない。アタシ達は、彼らが歩んだ末路を追いかけ、樹海で我が身を野晒しにするかもしれないのだ。


 「ギルド名は『バラック』だってさ。強そうな響きだな!」
 「拙者はもう少し富貴な名前がいいでゴザルなぁ…… なんだか身につまされる名前でゴザルよ。」
 「兄上、私の願い出た『ケーニヒスシュトゥール』は?」
 「長すぎる。」


 形だけはギルドの体を作り上げたとは言え、その内実はと言えば、冒険者を名乗るのもおこがましい資質と経験に欠けた連中の集まりだ。アタシ達はたった一つの目的、『諸王の聖杯』の発見を掲げて、このオンボロの掘っ立て小屋に集まっている。
 バラック、か。……まぁ、アタシ達には、お似合いの名前なのかもしれない。今は共に一つの屋根の元に身を寄せてはいるけれど、その連帯だって風の一吹きで崩れてしまいかねない、粗末な運命共同体なのだから。


 バラックの名を掲げたかつての冒険者は、何を願ってこの名前をギルドに付したのだろうか? そして、樹海の奥深くで息絶えるとき、仲間とどのような言葉を交わしたのだろうか?
 そんな取り止めのないことを考えながら、アタシは羊皮紙に自らの名前を認めた。悪魔の用意した魂の契約書に自筆した気分だった。






 冒険者の冒険の拠点となるギルドは、前作では他の施設と比べても影が薄く、非常に描写も抑え目な印象があります。新納さんは世界樹のデザインにあたってFF11などを参考にしたと思われるので、その辺りの流れからある程度は類推が利くようにも思うのですが。
 ともあれ、そんなワケで冒険者ギルドがどのようなシステムで運営されているかという部分については非常に曖昧で、それだけに解釈の幅が取りやすく、創作に取り組みやすい題材とも言えます。
 世界樹2の設定は、前回も述べましたが、冒険者としての登録が公国民としての登録を兼ねている都合上、ギルドの登録もそれなりに事務的な手続が必要なのかなと思ったりもします。ただ、これは世界樹の迷宮を巡る公国の姿勢がどうなっているのか、その空気をゲームを通じて味あわないとなんとも言えない部分でもあるのですが。
 そんなワケで、発売前の現状ではなかなか踏み込みにくい領域ではあるんですが、まぁ、中世ヨーロッパの通門審査なんかを参考に、なんとなくお役所仕事っぽくて登録受理には時間がかかり、迅速に登録を終えるには袖の下やらコネが必要、みたいな、そういう泥臭いやり取りがあるんじゃないかなと想像を逞しくしています。
 あとは、新規の登録処理は割と厳密にチェックされても、既存ギルドの変更処理は意外と杜撰に扱われてたりとか、システムの未成熟さゆえに外面は頑強でも抜け道多数みたいなハリボテじみたものを想像したりもして。この辺をもうちょっと煮詰めてみると面白いネタになりそうなんですが、やはり現状ではこれ以上手が出せないので今回はここまでで。


 そうしたチェックを擦り抜けるために、当初は呪い師にもっとダーティな手段を扱わせるつもりでもいました。貧乏だけど呪言があれば工作し放題ですしね。
 ただ、あんまりそういうことをやりすぎると、さすがに回りが引いてギルド結成が流れてしまいかねないので、一応は合法的な手段に。実際の話、ギルドは結成したものの構成メンバー全員が帰らぬ人になってしまう場合って結構あると思うんですが、そのタイミングと重なって変更処理が入ったら排他制御されてないのでエラーが出ると思うんですよね。そうやって宙に浮いた処理に割り込んで不正な情報を書き込んでしまおう、みたいな、今回のはそういう話です。なんか情報処理的にも事務処理的にも適切な表現ではないような気もしつつ。
 ってことで、呪い師の働く箇所が随分減ったので、その辺はあっさりした内容になってしまいましたが、今回のテーマ的にはギルド結成に伴う事務処理について、が裏にあったのでした。