世界樹の迷宮2・その8の1(3F)

 ブシドー♂ ナガヤの記憶


 地滑りにも似た鈍い振動を伴って、大扉が左右に開け放たれる。控えめなカンテラの灯りに照らされて闇から浮かび上がってきたのは、生命の息吹に溢れる常緑の樹海と程遠い、樽一杯の染料をぶちまけたような赤一色の泥土だった。
 海嘯が砂浜を侵食するように、明光が暗闇をゆっくりと溶かしていく。ぬめりを帯びた赭土を背景に、灯明はやがて倒れ伏した黒い影をその手に捕らえた。
 雨上がりの泥濘に倒れこむ酔漢のように、人影は毫も身動ぎしない。どこか不自然に四肢を折り曲げたその男は、公国準式の兵装を身に纏っていた。
 初めはそれが何を意味しているのか、理解が追いつかなかった。予期はしていても、覚悟を厳命されていても、これほどまでに酸鼻を極める光景は不意打ち以外の何物でもない。
 しかし、両の眼に焼き付けた一枚絵の意味を脳が理解するその前に、濁流の如く押し寄せる鉄錆の匂いが涙腺と鼻腔とを痛いほどに刺激し、目の前の光景が現実であることを否応なく飲み込まされる。これは決して夢などではないのだ。
 松明が室内に持ち込まれると、惨劇の場はよりその姿を鮮明にした。そこには無数の衛士達がまるで棚から零れ落ちた人形のように転がっていた。
 赤黒く染まった地面を埋め尽くすように横たわる衛士達の姿は、ある意味では宿の大部屋に雑魚寝する冒険者の一群にも似ていた。皆、手足を思い思いの方向に投げ出し、指の先まで疲労の染み込んだ肉体に束の間の休息を与える。
 しかしながら、安眠を貪る衛士達の口元からは、微かに昇る寝息の合唱などはまるで紡がれず、胴体を跨ぐ侵犯者の手足を忌々しげに退ける者もいない。室内はただ静寂が支配していた。これだけ多くの人間が犇いているというのに、生気の欠片さえ消え失せていた。
 ああ、そうか。彼らは、死んだように眠っているのではない。眠るように死んでいるのだ。


 その時、隣に直立していた一人の年若い衛士が突如蹲り、嗚咽と共に胃の中の物を床に激しくぶちまけた。目前の現実が理性を食い破ったたのだろう、沈痛なうめき声を発しながら、彼は激しく肩を上下させる。
 共に同じ釜の飯を食った仲であればこそ、この情景には堪えるものがあるのだろう。況してや衛士の多くは樹海の巡回が主たる任務で、このような最前線に放り込まれることなど稀なのだ。
 しかし、かくいう拙者も冷静に衛士を宥める余裕など持ち合わせてはいなかった。胸郭を押し上げるように食道を逆流する酸味の効いた臭気を口内一杯に感じ、拙者は必死で自制心を喚起し続けていたのだ。
 この不運な同輩に対して、微笑と共に手拭の一枚も差し出せれば、或いは男気のある鯔背な奴とも思われるのかも知れないが、正直な話、自らを取り繕うほどの余裕が拙者にはない。不意の動悸と共に断続的に訪れる嫌な呼気を律するのが精一杯で、他人に視線を配するその一瞬でさえ、集中が乱れて崖から足を踏み外すが如き危うさがある。
 とは言え、非常時に不慣れな彼ら衛士が寸手のところで士気を保っていられるのも、そして拙者がどうにか醜態を晒さずに済んでいるのも、室内に伏し倒れた「彼ら」の姿が、まぁ、然程生々しすぎないためだ。寝転んだ甲冑そのものと思えば、まだ我慢が効くところはある。
 戦場と違って跳ね飛ばされた四肢や首だけが転がっているワケでもないし、鉄兜の奥に控えた表情を直視せずに済んでいることも実は大きい。もし、彼らの鉄兜が脱げ落ちて、虚ろに濁った瞳と対面するような羽目にでもなれば、悲鳴を上げるだけでは済まないだろうという奇妙な自信が拙者にはあった。


 一方で、救出部隊の陣頭指揮を取る『百の名の勇士』は、浮き足立つ衛士一人一人に声をかけ、鼓舞し、激励し、瓦解しかけていた隊の秩序を取り纏めようと奮闘していた。拙者の傍らで蹲る衛士に対しても、彼は地面に膝を付き、その両肩に手を添えて、熱の篭った声で語りかける。


 「どうした。気分が悪いのか?」
 「はい、余りに血の匂いが強すぎて……」
 「それも無理はない。しかし、君はそんな自分をどう思う。許せるか? それとも悔しいか?」
 「悔しいです。中でジョンが待っているのに……」
 「よし、それは勇敢な戦士の心だ。自らの惰弱さを否定する勇者の声だ。」
 「勇者の、声……?」
 「そうだ。君のその勇気が、魔物と戦い、傷つき倒れ、苦痛に喘ぐ彼らに生きたいと願う力を与える。君のその苦しみは、彼らの味わう苦しみでもある。仲間の苦しみを誰よりも知る君ならば、それを放っては置けないはずだ。」
 「……ジョンが、こんな辛い思いをしているなら……」
 「だから、君の勇気を分けて欲しい。一緒にジョンを助けに行こう。」
 「……はい。なんとか、やってみます……」


 揺らぎのない、実直な叱咤激励は心を挫かれた彼ら衛士にとって、力強い支えとなることだろう。拙者には到底真似のできない大業だ。


 まぁ、いい加減、臭覚も腥気に潰され、奇妙に精神が昂じてもいる。肝が据わった、というのとは少し違うが、開き直るぐらいの落ち着きは得られた。とは言え、目の前に横たわる衛士のあり得ない方向に曲がっている腕肢などは、痛々しすぎて今も正視に耐えかねるのだが。
 気質の変化は同行する衛士達も同様のようで、一時は騒然としていた衛士隊も聖騎士殿の努力の甲斐あってか、ようやく平静を取り戻しつつあった。彼らは手に取った長柄の得物を握り直し、室内で救助を待つ仲間達を助ける意志の炎を再び胸中に灯し始めたようだった。
 それを機敏に察した聖騎士殿は、一同に向かって深く頷くと、低く鋭く号令を掛ける。


 「行くぞ! 今こそ公国衛士隊の団結を見せるときだ!」


 闇夜に紛れての作戦なだけに、聖騎士殿に応じる鬨の声はない。しかし、この時ばかりは誰しもが、仲間の救出を完遂することを心中で固く誓っていたのだ。




 夜半を待ち、『敵対者』の興奮が鎮まるのを待って作戦は開始された。血流が澱んで水溜りとなり、一面泥土と化した室内を、『敵対者』は湿った蹄音を響かせながら徘徊していた。闇夜の中で虹彩を赤く輝かせて彼らは警戒心を露わにしていたが、恐怖とも興奮ともつかない複合した感情を暴発させるようなことはなく、ただただ侵入者との彼我の距離を測りながら、熱い鼻息を漏らし続けていた。
 こちらもまた彼らと干戈を交えるつもりは一切なかった。時たま、迂闊に近づきすぎた衛士が『敵対者』の枝角の刺突に身を危うくすることもあったが、そこは危険を察知した聖騎士殿と黒い狼が素早く両者の間に分け入り、不用意な接触を未然に断ち切るべく尽力していた。
 拙者達は、威嚇と照明を兼ねた長柄の松明を翳しながら、素早く室内に散って三々五々衛士に駆け寄る。足元に身を横たえる衛士に声をかけ、肩を揺らし、兜を剥いで意識を確認する。
 負傷者に息があれば、彼らを室外へ運搬しなければならない。当然ながら『敵対者』の屯する室内で悠長に全身鎧を着脱する暇などはなく、時に担架を用いて、時に背に負って、彼らを衛生官の待つ通路にまで連れ出さなければならなかった。


 「ユーディット殿、次を頼むでゴザル!」
 「少しだけ、我慢して!」


 拙者は地に片膝をつき、細心の注意を払って背負っていた衛士を地面に下ろす。寝台代わりの毛布の上に、苦悶のうめきを漏らす衛士の体躯が横たえられると、ベオ殿が素早く衛士から具足を剥ぎ取り、次いでユーディット殿が傷口の消毒を開始する。


 「先遣隊は全て安否が確認されたのでしょうか。」
 「一隊が未だ行方を眩ましているそうでゴザル。」
 「……無事だといいのですが。」


 口を動かしながらも、ユーディット殿の視線は目前の負傷者にのみ注がれている。額に玉の汗を輝かせながらも、その手が目的を見失って澱むことはない。
 まったく、彼女の手腕は鮮やかなものだった。救援のために駆けつけた公宮付きの衛生官でさえ舌を巻くほどに、その処置は迅速にして精緻を極め、医術を実地に用いる冒険者ならではの合理的で、しかし時に荒っぽいやり方も存分に駆使し、次々と運び込まれる負傷者に対し、適切な手当てを続けてきたのである。
 長時間に渡る施療を続けながらも、彼女は体力の消耗をまるで感じさせることがない。彼女の熱意と集中力に拙者は感服の溜息を漏らし、次に視線を辺りに転ずる。


 部屋に接続する直線状の廊下には、壁伝いに負傷した衛士が寝かされ、臨時の野戦病院の様相を呈していた。
 彼らは皆一様に苦痛に顔を顰めていたが、それもある意味では幸せなことかもしれない。彼らは救護の必要ありと見なされて部屋から運び出されてきた衛士達で、それは裏を返せば手の施しようのない者達が未だ血に塗れた惨劇の舞台に放置されているということでもある。
 部屋に取り残された彼らが果たしてどのように望まぬ終幕を迎えたのか、拙者には分からない。苦しむ間もなく天に召されたのかもしれないし、総身を焼き焦がすような苦痛に神を呪いながら息絶えたのかもしれない。
 ひょっとしたら、かの聖騎士の判断に従わず、すぐに現場に飛び込めば、それで助かった命があるのかもしれない。迅速な処置をこそ必要とした負傷者も数多くいたことだろう。
 しかし、結果として、木乃伊取りが木乃伊になってしまえば本末転倒なのも確かだ。負傷した衛士の命は重く、救援に駆けつけた衛士の命は軽いのか。そんなことはない。
 だからこそ、『百の名の勇士』は、歯噛みしながらも万全の体勢を整えた上で救出作戦を決行した。結果から言えば彼の判断は間違っていなかった。そう、拙者は思う。




 負傷者の搬出も一息つき、目まぐるしく働いていた衛生官達も交代で休息を取り始めた。拙者は壁面に背中を預けて蹲るユーディット殿に近づくと、湯冷ましの満たされたカップを差し出す。


 「体は労わらぬといかんでゴザルよ。癒し手が倒れてしまっては元も子もない。」


 彼女はじっとこちらを見つめ、無言でカップを手に取ると、しばしそれを掲げたり、目を細めて注視したりと、具に観察を開始する。


 「へ、変な物は入ってないでゴザルよ!」


 こちらの言を容れたのか、彼女は小さく頷くと、カップに口をつける。まぁ、拙者が彼女の労に報いられるとすれば、これくらいが精々だ。
 張り詰めていた気が途端に緩んでしまったのだろうか、彼女の表情には疲労の影が色濃く滲んでいる。一時も休まず施療に没頭していたのだから、それも無理はない…… とも思うのだが、それにしては重く沈みすぎているような気もする。少なくともそれは、今回の殊勲者が覗かせるべき表情ではない。


 「さ、先程のユーディット殿の施術は、見事な妙技でござったなぁ。」


 気づいたら拙者は何事かを口走っていた。沈黙に耐えられなかったのがその原因だが、少々用いる語彙を誤ったかもしれない。彼女の手腕を賞賛しようと思ったのだが、まるでこれでは剣術大会の後談議だ。
 唐突に祈りの言葉を口走る狂信者を見るように、彼女は頓狂な眼差しで拙者を仰ぎ見る。その視線に気圧されて、拙者は次の言葉を慌てて捜す。


 「こ、公国の衛生官も皆、ユーディット殿の手腕に感嘆していたでゴザルよ。あれぞ古より伝わる呪術医の奥義か、はたまた秘伝か、などと……」
 「……あんなもの、巫道の技でもなんでもありません。」


 賞賛を真っ向から否定され、拙者は思わず次句を見失う。大体、拙者、医術と巫術の区別など分からんでゴザル。


 「全て樹海に立ち入る衛生官なら、自然と体得する技術です。それを秘術だ秘儀だと騒ぎ立てるのは、いかに自らが象牙の塔に篭っているかを白状するようなもの。精進が足りません。」
 「し、しかし、例えばあの金鍼を用いた術式などは、呪術医ならではの技法と拙者は見受けたでゴザルが!?」


 彼女は裂傷を縫合する際などに、患部の近縁部に幾本もの金鍼を付き立てて、それから改めて処置に乗り出すことが、しばしあったのだ。少なくとも拙者は、衛生官があのように鍼を用いるのを見たことがない。


 「あれは、ただの麻酔の代わりです。痛覚を一時的に麻痺させ、患者の負担を軽減するための。」


 あの金鍼の技法は、衛生官の技術に代替可能な代物に過ぎない、と彼女は語っている。呪術医にのみ許された特別な技法ではないのだと。


 「むしろ巫術の技法の多くは、余りに神秘主義的な迷信染みた手法に囚われ過ぎているのです。消毒、止血、麻酔、全てが医術の発展によって生み出された概念です。結局のところ、私の先程の施療は全て学生時代に体得したそのままを流用しているだけに過ぎません。」
 「そ、それでは巫術は、須らく医術に劣るものなのでゴザルか?」
 「いえ、それは私の力不足によるものです。先人の英知を読み解くことができない私自身の至らなさです。」


 それは、彼女にしては珍しい自嘲染みた呟きだった。傲岸不遜……というのとは多少は意味合いが異なるが、彼女は常に凛として隙のない女性だったと拙者には思える。果たして今まで、自らの弱みを晒け出すようなこんな素振りを、彼女が見せたことがあっただろうか?


 「医術を捨てて、巫術に縋ろうとして、結局は医術に頼っている。お笑い種ですよね。私一人の力で兄上を救ってみせると豪語して、その実無力を晒しているだけ。典籍の引き方しか知らない白面の衛生官と背比べをする程度が、今の私の限界なのです。」
 「そ、そんなことはないでゴザルよ……!」


 反射的に否定してはみたが、医術に造詣のない拙者には到底反駁に適う材料などない。医術と巫術の道理の違いもわからないこの身にとっては尚更だ。
 しかし、それでも、彼女が今この場で多くの人々の身命を救うべく尽力したことは事実なのだ。それを自らの無力さと嘲るには、余りにも悲壮に過ぎはしないだろうか。


 「ど、どうやらユーディット殿はお疲れのようでゴザル。心身荒じれば鬼狐をも招く、と俗諺にもあらば、今はしばし骨を休めて英気を養うべきかと。」
 「……そうですね。少し、疲れているのかもしれません。」


 彼女はしばし瞑目して、長く深く呼吸を繰り返す。そのまま頭を垂れて入眠してしまいそうなほどに彼女の呼気は穏やかで、四肢は疲労に弛緩さえしていた。
 彼女は、施療に携わりながらも、自らの葛藤と戦い続けていた。理路整然と繰り出されたように見えた彼女の手技の一つ一つには、傍目からは窺い知れぬ様々な感情が纏わりついていたのだ。
 それは医術への存念なのかも知れない。巫術への渇望なのかも知れないし、自己への苛立ちであったのかも知れない。或いは、彼女が巫術の道を志した理由、即ちノワイト殿に対する心理が働いていたとも考えられる。
 一つだけ確かなのは、彼女は自らの技術に決して満足していないということだ。むしろ彼女は現状を悲観し、心急いているようにさえ見える。
 それが拙者には、何よりも意想外な発見だった。冒険の途上において、拙者は彼女の呪術医としての知識と力量に何度となく助けられた。それと同時に、兄君に対する過激な忠孝の数々に、肝を冷やしたこともある。
 しかし、それはユーディット・ベッカーという名の呪術医の、盾の一側面に過ぎなかったのではあるまいか。今こうして穏やかな寝顔を覗かせる彼女は、未だ弛まぬ苦悩に煩悶する年相応の少女でしかない。今の彼女は。冷厳で強かな兄君の並足に追いつかんと急くあまり、丈の長い衣服を纏って裾を引き摺る羽目に陥っているようにも見える。
 ……などと、分析の真似事などもしてみたが、まぁ、それは余りにも突飛な発想に過ぎる。況してや思惟を披見すれば鼻で笑われるのがオチだろう。
 苦笑しつつ、拙者は彼女の上体に、そっと毛布代わりのマントをかけてやる。不意に身動ぎする彼女に慌てて踵を返すと、背中に苛立ちの篭った声が投げかけられた。


 「……ナガヤ、今の話は忘れなさい。」