世界樹の迷宮2・その8の2(3F)

 ブシドー♂ ナガヤの記憶


 暫くして、不意に衛士達がざわつき始めた。奇妙なことに彼らの注意は『敵対者』の徘徊する腥気に満ちた室内ではなく、突き当たりの小道と共にT字路を形成する南の通路に向けられている。
 拙者は手近な衛士の一人を呼び止めると、微かではあるが、しかし剣呑なこの異変について問い尋ねた。


 「なにごとでゴザル?」
 「『死肉漁り』です! 奴ら、血の匂いを嗅ぎつけて……!」


 暗闇の向こうから小さな羽音が聞こえた気がした。空耳を疑う間もなく、それは段々と音を高く激しくして、こちらに急速に接近しつつある。


 「先生、来ます!」


 ベオ殿はそう叫ぶなり、腰から剣を引き抜いて迎撃の姿勢に移る。拙者も慌てて刀を抜き放つと、正眼に構えて襲来者を見極めようと目を細めた。
 松明の茫洋とした揺らめきに照らされて、その巨大な球状の生物は輪郭を露わにした。赤地に黒の水玉模様の甲殻を背負ったその飛行体は、薄羽の膜翅を激しく振動させながら、通路をジグザグに滑空して獲物へ飛び掛かろうと試みる。


 「折角助かった命を、無駄になんかさせるかっ!」


 咆哮と共に跳躍した剣士の少年は、まるで獅子の爪牙の如き強烈な斬撃を甲虫の頭首に見舞う。上段から捻じ込まれた刃に甲殻ごと真っ二つに引き裂かれた『オオテントウ』は、地面に落ちて激しく身を捩ったあと、暫くして動きを止めた。




 『死肉漁り』の襲来はそれだけに留まらなかった。息絶えた甲虫の屍体から異様な臭気が立ち上ると、次いで鼓膜を騒がしく震わせる羽音の合唱が通路の向こうから近づいてくる。
 次々に飛来する『オオテントウ』の群れを、ベオ殿は端から切り捨てていく。年若く、修練も未だ不足しがちな彼ではあったが、その戦い振りには鬼気迫る心気が存分に漲っていた。
 やがてベオ殿の奮闘に釣られるようにして、衛士達が奇声を上げ、『オオテントウ』に躍り掛かっていく。ベオ殿を中心にして衛士隊は廊下を封鎖する戦線を構築し、群がる『オオテントウ』を今度は押し返し始めたのだ。
 ベオ殿の奮戦は即ち、聖騎士殿への返礼でもあったのだろう。自らの不徳を誅しながらも、心身を削って『敵対者』と相対し、彼は自らの役割を全うし続けた。
 そうしてようやく死の淵から引き上げられた人々が、拙者たちの背後には控えているのだ。彼らの身を守れなくして、聖騎士殿に顔向けができようものか。
 それを思えば心が熱くなるのも道理ではある。ベオ殿は聖騎士殿に報いる為に、ただ五体を躍らせている。ただ懸命に、その意志の灯火を絶やすまいと奮迅しているのだ。


 「ここは生き抜く意志を持つ人間が戦っている場所だ! 『死肉漁り』は墓場に帰れっ!」


 『オオテントウ』の襲来がしばし続き、それに相対すること半刻。廊下が『オオテントウ』の死骸に埋め尽くされ、ようやく攻め手が収まったかと思いきや、次なる刺客は既にその魔手を戦場に伸ばしつつあった。
 初めに異変に気づいたのは、ミレッタ殿だった。ミレッタ殿は徐に中空を見回し、眼前の暗闇の中に矢箭を続けて打ち込んだのだ。悲鳴にも似た唸り声が遠方より響き、次いで奇妙な冷風が廊下を吹き抜けた。


 「気をつけて! 何かいる!」
 「『死肉漁り』が大物を呼びやがったんだ!」


 衛士の誰かの叫びと共に、その巨体がゆっくりと暗闇から這い現れる。赤黒い花弁を力強く開いた特徴的なその風貌は、浅層で数多の冒険者に恐怖の叫び声を張り上げさせることで知られる『ラフレシア』と呼ばれる怪物だった。
 樹上を渡り歩くテナガザルのように、通路脇に林立する巨木に蔦を絡ませて、体躯を引き摺るように『ラフレシア』は前進を続ける。さすがの巨体を前にしては、血気盛んなベオ殿も飛び出すのに躊躇せざるを得なかったようで、剣を中段に構えたまま、今は相手の出方を窺っている。
 獲物が大人しくているのを見て取ってか、『ラフレシア』は前進を止め、そして次の瞬間、口裂にも似た花弁の中央から猛烈な風雪を噴き出した。拙者は慌てて路傍の茂みに身を投じて難を避けたが、拳ほどの大きさの無数の雹を全身に浴びて、衛士の幾人かが昏倒する。
 なんてことだ。あんな物を頭にでも食らっては、例え兜で受け止めたとしても、衝撃で脳が参ってしまう。こうやって『ラフレシア』は獲物を薙ぎ倒し、抵抗を封じ、そして捕食するのか。
 更なる強敵の出現に対し、ベオ殿は歯噛みしながらも決して退く姿勢を見せない。剣を構えて巨躯を見上げる彼の姿は、まるで羆に立ち向かう子犬のようにも見えた。


 「先生、手を貸して!」


 振り向きざまにベオ殿は、拙者の目を見据えて叫ぶ。ベオ殿の言わんとしていることが瞬時に理解できたのは、それ即ち、短くない時間を共に過ごしてきた成果であろう。


 「委細承知!」


 拙者は茂みの中より這い出でると、呼気を緩やかに引き伸ばしつつ、上段に振り被った切先に意識を集中させる。すると生気が体幹を奔り、血液が熱気を帯びて五体を満たしていく様が軽やかに感じられる。
 『ラフレシア』を視界に捉えつつ、拙者は地面を蹴って前方へ高く跳駆する。魔物の頭上を制した拙者は、裂帛の気合と共に標的目掛けて愛刀を振り下ろした。
 大仰な花弁を深く切り裂いた刀身は赤く白く熱を帯びつつ、創傷を惨く激しく焼き焦がす。高熱に捲れ爛れたその花弁は飛沫の如く火の粉を放ち、次の瞬間、猛火が渦を為して魔物の全身を包み込んだ。
 体全体に纏わりつく炎の舌を振り払おうと、『ラフレシア』は必死に上体を振り揺らし、風圧で以って鎮火を計ろうとする。しかし、その瞬間、弾丸のように飛び出した剣士の少年が、全体重を乗せた一撃を『ラフレシア』の口中に叩き込んだのだ。


 「お前に食わせてやれるのは、鉄と炎、それだけだっ!」


 ひねりを加えて繰り出されたその一撃は、円環状に連なる牙を真正面から叩き折り、抉じ開けられた口中に炎を巻き込んで貫通する。表皮を焼かれるだけでなく、体臓までをも炎熱に炙られて、『ラフレシア』は苦悶の叫びにも似た奇怪な騒音を辺り一面に響かせた。
 やがて絶叫は徐々に力を失い、魔物は力尽きたように崩れ落ちる。灰の塊と化したその巨体は、薄い朱の炎を身に宿して燻りながら、いつまでも弾けるような音を放っていた。




 『ラフレシア』を首尾良く撃退したまではよかったものの、拙者達には勝利の余韻に浸る暇など一時たりとも与えられなかった。意識を取り戻した先遣隊の衛士の口から、東の小道へ逃げ遂せた一隊の詳細が明らかになったためである。
 彼ら一隊は、捜索の初期の段階から懸命の捜索が続けられながらも、一向にその行方を掴めなかった部隊でもある。そんな彼らの所在がようやく判明したとあって、朗報に陣中は沸き返った。
 しかし、安堵に胸を撫で下ろす一方で、衛士の報告には誰もが眉を顰めざるを得なかった。と言うのは、彼らが逃げ込んだとされる東の小道の入り口には、大仰な体躯を有する角鹿の『敵対者』が、まるで門番宜しく控えていたからである。
 東の小道の調査が後手に回ったのには、そうした事情も多分にある。その大鹿の『敵対者』、『激情の鹿王』は、先遣隊を襲撃した角鹿の群れを率いる、言わば彼らのボス的存在だ。その抜きん出た巨躯と勢威を前にしては、歴戦の勇士でさえ総身を怖気に震わせるだろう。
 何分、真正面からぶつかるには手強すぎる相手だ。『激情の鹿王』は、その嘶き一つで手足を用いるように眷属の角鹿達を操るとも聞くし、鋼の塊のような四肢から繰り出される猛進は、人の手で防げるような代物ではない。


 よって拙者達は、搦め手を用いてこの『敵対者』に抗する作戦を選択した。魔物をその妖しげな音色によって魅惑する『引き寄せの鈴』と呼ばれる呪具を用い、かの角鹿の『敵対者』を誘き出した隙を縫って小道への突入を図る、というのがその骨子だ。
 正直な所感を言えば、奇策、である。幾つもの仮定の足場を構築してようやく砂上に屹立するその木櫓は、不意の強風で倒れてしまいかねない脆さを内に秘めている。
 とは言え、万全の方策を以って『敵対者』と雌雄を決するなど、そんな悠長な甘えが許される状況ではない。限られた時間、限られた物資、限られた人員の中で採択できる最良の方法が奇手であることは、誰しもが認めざるを得ない結論ではあった。
 或いはもう一つ、安全性の高い方策もないワケではない。それは即ち、彼ら孤立した一隊を見捨てて、救助された衛士のみを引き連れて作戦を終了する、という類のものだ。しかしながら、この提案を聖騎士殿は頑として受け容れず、結局、最終的には拙者達は綱渡りにも似た救出作戦を決行する運びとなったのである。




 「しかし、果たしてそう上手く事態が進展するものでござろうか。」
 「他人事みたいに言って! それもアタシ達次第でしょ!」


 意気高く声を荒げるのは、茂みに身を潜めつつ『敵対者』の動向を探るミレッタ殿だ。
 拙者達、ギルド『バラック』は、本隊が『敵対者』の注意を引き付ける間に小道に突入し、先遣隊の安否を確認し、可能ならば彼らの身命を保護する役割を任じられた。本来ならば、これも衛士隊が担うべき任務ではあるのだが、ここでは機動力に長ける冒険者こそが適役と聖騎士殿は即決を下したのだ。
 同時に、先程ユーディット殿が披露した施術の手腕も、聖騎士殿の考課の対象には含まれているようだった。自らの身を守るだけの武装を有し、樹海での生存術に優れるとあれば、丸腰に近い衛生官を帯同させるよりも機動性を有した作戦活動が行える。
 結局のところ、冒険者が樹海での行動に最適化された集団であることは、誰もが認めざるを得ない事実なのだ。これは自惚れでもなんでもなく、専守防衛を旨とする彼ら衛士とは、そもそも役割が違うだけの話である。
 それゆえに貧乏籤を引かされたとは言え、彼らを恨むのも筋違いではある。確かにミレッタ殿の力説通りに、今は目前の難事に集中すべき時節なのだろう。


 「それにしても、ミレッタ殿は珍しくやる気でゴザルな?」
 「アタシはイヤよ、正直に言えばね。でもまぁ、一人元気なのがいるから、さ……」


 そう言いながら、ミレッタ殿は顎でベオ殿を指し示してみせる。なるほど、今回の任務に一番積極的なのはあの剣士の少年なのだ。ミレッタ殿は乗り気ではないとは言え、ベオ殿に引き摺られる形で不承不承協力せざるを得ないというワケだ。


 「お願いだから、足だけは引っ張らないでよね。」
 「……まぁ、微力を尽くすでゴザル。」
 「ったく、微力じゃなくて、全力を尽くしてよ。」


 それは言葉の綾ではあるのだが、抗弁のために口を開こうとして、拙者は急遽断念する。……『激情の鹿王』が鈴音に引き寄せられて、ゆっくりと歩き出したのだ。
 雄大な体躯を有する鹿の王は、屈強な肢体を飾り立てる豊かな毛皮と、王冠の如き壮美な枝角を揺らしながら、鈴を振り鳴らす聖騎士殿の元へ一歩一歩、歩を進ませる。その眼差しは聖騎士殿の手元に吸いつけられるように固まっていて、茂みに身を潜めるこちらの存在にはまるで気づいていない……といいのだが、果たしてどうだろうか。


 「呪術院の余技も使いようだな。我々も先を急ぐぞ。」
 「なんか、思ったよりも呆気なかったわね。」


 鹿の王の脇を擦り縫けるようにして、拙者達は東の小道に飛び込む。この先には分岐などはないようだし、奥行きも僅かと聞けば、取り残された衛士の安否もすぐに知れよう。確かにミレッタ殿の言うように、気構えが過ぎていたのかもしれない。
 唯一、懸念があるとすれば、それは小道に『激情の鹿王』の眷属である『敵対者』が潜んでいた場合ではあったが、この問題に関しては幸いにも杞憂に済んだ。両脇に背高の茂みを抱えたその小道で、拙者達は『敵対者』は愚か、魔物の一匹たりとも出くわすことなく、最奥まで辿り着くことができたのだ。


 扉を潜り抜けると、そこには憔悴しきった様子で蹲る衛士の一団がいた。その鎧は血と泥に塗れて黒く変色し、元よりの白銀の輝きなどとうに消え失せている。怪我を負った衛士も少なからず見受けられ、彼らが遭遇してしまった過日の暴風の凄まじさが、それだけでも窺えた。
 侵入者の気配を察知してか、彼らは手に手に剣や槍を構えてはいたが、もはや体の震えを律することも思わしくないようで、槍の穂先などに至っては頼りなくふるふると震えてさえいた。しかしながら、扉を潜り抜けてきた武装する一団が『敵対者』ではないことを見て取ると、彼らはその手に構えた武器を下ろして、言葉少なに乾いた声で問い掛けた。


 「君達は、冒険者か……?」
 「はい、公宮よりミッションを受領して、あなた方を迎えに参りました。」


 ベオ殿の明朗闊達な宣言を受けて、衛士達の表情にようやく生気の火が灯る。彼らは視線を交わしながら無事を喜びあい、口々に感謝の言葉を述べ始めた。


 「君達の勇気ある振る舞いに感謝する。世界樹様が君達を遣わしてくれたこともだ。」
 「希望を失わない生還への意志に、世界樹様が応えてくれたのでしょう。」


 ユーディット殿が衛士の応急処置を急ぐ間、拙者達は衛士隊の質問に応じ、先遣隊として遣わされた彼らの本隊が、『敵対者』に手により半壊に至った事実を告げる。彼らは沈痛な面持ちで樹海の土に還った仲間の冥福を祈った。


 「くそっ! それもこれも全て『百獣の王』のせいだ。奴が第1層に降りてきたせいで、角鹿どもも住処を追われ、誰も彼もが混乱に陥っている。」
 「彼らは、元々上階の住人なんですか?」
 「そうだ。第1層の深奥は鹿どもの縄張りだったのだ。しかし、『百獣の王』に追い出される形で、彼らは下層に押し出されてきた。あの『激情の鹿王』にしてもそうだ。」


 数多くの衛士の身命をその角と蹄で屠ったあの『激情の鹿王』でさえ、『百獣の王』に恐れをなしてこのフロアにまで逃げ延びてきたというのか。ならば一体『百獣の王』とは、どれほど凶悪な魔物なのか。全く以って拙者には想像が及ばない。


 「さて、歓談に興じている暇はない。早急に退路を確保し、本隊と合流を果たさねばならぬ。」


 ノワイト殿の号令を皮切りに、衛士隊が最後の気力を振り絞って立ち上がる。足取りは不確かで頼りなくはあったが、しかし皆々その目には生還への意志の火を灯していた。
 拙者達は、彼らを先導するように元来た小道を辿り始める。しかし、程なくして左手の茂みに靄のように広がる奇妙な気配を察知した。
 その瞬間、樹林を突き抜けて、高く長い遠吠えが木霊した。この声は…… 間違いない、これはクロガネ殿の発した咆哮だ。本隊に何がよからぬ事態でも生じたのだろうか?
 長く伸びる遠吠えの残響を押し潰すようにして、突如、乱雑な蹄音が大気を激しく震わせる。その振動は大気だけではなく地面までもを掻き揺らし、そして次の瞬間、『激情の鹿王』の豪壮とした巨躯が茂みを突き破って踊り出たのだ。


 「……所詮、円鈴も玩具に過ぎぬか。『敵対者』の身体を縛り付けるには些か足りぬ。」


 茂みの中から見上げた姿とは異なり、正対する『激情の鹿王』の威容は想像を遥かに超えていた。地面を律動的に叩く蹄音の一つ一つに、足が竦み、腕が強張り、頬が引き攣る。
 彼らは狼のように残忍ではない。虎のように凶暴でもない。しかし彼らは羊のように臆病なのだ。それが拙者には何よりも怖い。理性を欠いた暴走など、対処のしようがない。
 クロガネ殿は、意を決して拙者達に危難を知らせてくれたのだろう。しかし、その誠意は報われることなく霧散した。眼前の小道は角鹿の王の巨体に塞がれてしまっていて、猫の子一匹這い出る隙間もない。後続の衛士を守りつつ、突破を図るなど余りに難きに過ぎる。


 「眠りたまえ、角鹿の王よ。母親の腕に抱かれた、安逸な過日の記憶と共に。」


 未だ事態を呑み込みかねている拙者達を差し置いて、いち早く動き出したのは、痩せぎすの呪い師の男だった。彼は眼を見開くと、普段とはまるで様相の異なる艶を含んだ声で、『敵対者』へ呪言を投げかけたのだ。
 ノワイト殿の紡いだ呪言は、確かに『敵対者』の脳髄を眩ませたようだった。双眸に宿った炎が掻き消えるように光を失い、前肢がふらつき折れて、上体が崩れかける。
 しかし、そこまでだった。舟を漕いで目覚める老人のように、『敵対者』は瞬時に我を取り戻し、姿勢を元に戻すと再び拙者達へ凶暴な眼差しを向ける。呪い師は頭を振り、そして嘆息した。


 「やむを得ぬ。ベオ君、『アリアドネの糸』を使いたまえ。」


 ノワイト殿の言葉に誰もが呆気に取られた。彼にとってそれは熟考を凝らした上での発言だったのかもしれないが、拙者などには余りにそれは早急な決断に思えたのである。


 「できませんよ! ここまで来て諦めるなんて!」
 「だからと言って『敵対者』に抗し得るものでもあるまい。作戦は失敗した。後はいかに被害を抑え、退却を成功させるかの問題だ。」


 ノワイト殿の主張は確かに理に叶ってはいる。しかし、拙者達が持ち合わせている『アリアドネの糸』はたったの一巻きだけだ。バラックの全員が無事逃げ遂せるとして、後続の衛士隊の身命は果たしてどうなるというのだ。


 「衛士の人達を見捨てて逃げろって言うんですか!」
 「君が気に病む必要などない。作戦の不始末は責任者が負うものだ。ゆえに君は生存に必要な最良の判断を下したまえ。そう、後事はあの聖騎士殿に任せればそれでいい。」
 「……だったら、尚更逃げられるものかっ!」


 ノワイト殿の誘導は、むしろベオ殿の勘気の炎に油を注ぐ結果を招いたようだった。考えてみれば『百の名の勇士』の期待に応えるべく奮迅を誓う彼にとって、その名を卑しめる行為など肯定できようハズもない。
 ベオ殿は、巨体を呼気に震わせる『敵対者』を敢然と睨みつけると、次の瞬間、その懐に向かって走り出す。両手に剣を閃かせ、低い姿勢で小道を疾駆する。


 「足の一本でも奪えば! それであの巨体は地に沈む!」
 「ベオ殿!」


 制止の声が届く前に、既にベオ殿は魔物を自らの射程内に捉え、大きく後方に剣を振り被っていた。それと同時に後方から風を引き裂いて直進する2本の矢が、『敵対者』の肩口を射抜いて鮮血を散らせる。


 「チッキショ! 肩かっ!」


 恐らくは目か頭を狙ったと思われるその矢は、ミレッタ殿の意図通りの成果を果たせなかったものの、死角からの攻撃に『敵対者』の反応が一瞬だけ立ち遅れる。そして千載一遇の好機を得たベオ殿は、『敵対者』の成木の如き左足を狙って、満を持しての一撃を叩き込んだのだ。


 「骨ごと叩き斬ってやるっ!」


 怒号と共に袈裟斬りに叩き付けられたベオ殿の一撃が、『敵対者』の脚に深く食い込む。しかし、次の瞬間、『敵対者』の鋼のような筋肉に跳ね返されて、ベオ殿の剣は鈍い金属音を辺り一面に響かせた。


 「なんと無謀なことをっ!」


 駆け巡る痛みを抑え切れぬように『敵対者』は前足を振り上げ、そして呆然とするベオ殿の顔面を踏み潰そうと満身の力を篭めて振り下ろす。『敵対者』の意図に気づいたベオ殿は、間一髪で後方に体を投げ出し、地面を転がってその一撃を避けると、距離を取って再び剣を支えに立ち上がる。
 ベオ殿に目に見える怪我はない。しかし、その顔には先程は窺えなかった焦燥感が色濃く浮き上がっていた。


 「まだ遅くはない! ベオ君、早く『アリアドネの糸』を……」
 「先生! もう一度だけ手を貸してください!」


 ノワイト殿の制止の声を遮るように、ベオ殿は拙者に協力を呼びかける。ベオ殿は、先程『ラフレシア』を葬った連携を、この鹿の王にも試そうと言うのだ。
 確かに、通常の斬撃がまるで通じないこの難敵に対して、他に有効な手段は思いつかない。とは言え……


 「ナガヤ、デレクの息子を止めなさい!」


 一方で、戦闘の継続に対して異を唱えるベッカー兄妹への手前もある。果たして拙者はどちらの言をよしとすべきなのか。


 継戦か、撤退か。
 名誉か、身命か。
 矜持か、理性か。


 拙者は、一体どちらを選べばいいのだ……!?


 「ならば仕方がない…… 呪言の枷を投じてでも、私はベオ君を止めなければならぬ。」
 「何言ってんのよ、この人鬼が! アンタ、仲間に呪術は使わないって言ったじゃない!」
 「稚気は仕舞だ、と私は言ったのだ。……つまり、私は本気なのだよ……!」
 「だからって仲間に手をかけようだなんて……! アンタは心底狂ってる!」
 「真に不常と断ずるべきは、理性を擲つ愚かさだ……! なぜそれがわからない!」


 「……南無三っ!」


 拙者は駆け出していた。何も考えずに走り出していた。声高に繰り返される2人の悪罵を耳に入れたくなかった。それだけだった。
 拙者の眼前で、角鹿の『敵対者』が怒りの吐息を漏らしていた。しかし、拙者は勇を奮って『激情の鹿王』に立ち向かおうとしたのではない。
 拙者は逃げ出しただけだ。逃げ出した先に『敵対者』がいただけなのだ。


 「ナガヤ!」
 「ナガヤ!?」


 拙者の名を呼ぶ2つの声が重なった。一つは喜色を伴って。一つは驚愕を伴って。
 拙者は駆けながら、刀を抜き放ち、そして上段に構える。拙者をその行動に駆り立てたのは些細な偶然ではあったが、刀を構え終わった瞬間に、それはもはや確信に変わっていた。
 この手で、『敵対者』を、切り伏せる……っ!


 拙者は、駆け、飛び、走り。
 そして、張り出した木の根に躓き、こけた。


 「ナガヤのアホーッ!」


 ……壮絶な転倒だった。何しろ両手は上段に掲げられていて、身を守る術など一切を放棄していたのである。顔をイヤというほど地面に擦りつけ、土と草と鉄のなんとも言えない味が口中一杯に広がる。
 口に含んだ諸々を吐き捨てながら、眦の奥に潜り込んだ砂をどうにか拭いながら、拙者はのろのろと上体を起こす。……『激情の鹿王』と目があった。
 『激情の鹿王』の瞳は、その名の通り、憤怒に歪んでいた。怒気が蒸気となって立ち昇り、大気を揺らめかせるほどに。
 そこには失態を演じた無様な人間を気安く笑い飛ばすほどの大らかさなどは一片も存在せず、ただただ自らに手傷を負わせた暗愚な者どもへ向ける怨嗟の炎が燻っている。許しを請う暇など一秒たりとも与えられないことを、拙者はその目を見て即座に悟った。
 『激情の鹿王』が大地を蹴った。憤激の篭ったその枝角での一撃を臓腑に見舞って獲物を跳ね飛ばし、その槌矛のような蹄によって、胸骨を、頚椎を、頭蓋を、踏み砕き、踏み潰し、踏み躙るつもりなのだ。
 路地に野晒しになった我が身の行く末が脳裏を過ぎり、そして拙者は恐怖に刮目する。激しさを増し続ける蹄音の鳴轟は、鼓膜を打ち破らんとして極大にまで高鳴り、刹那の後の死を拙者は幻視した。