世界樹の迷宮2・その9の2(5F)

 ソードマン♂ ベオの記憶


 「『百獣の王』は、『百の名の勇士』に撫育された魔物なのだ。」


 突如聞きなれぬ言い回しが飛び出して、オレは呪い師の言意を即座に理解しかねた。頭の中で何度も何度も反芻して、ようやくその意味を把握する。
 それでも彼の言葉を素直に呑み込めないもどかしさに、オレはしばし苦戦を強いられた。「これは呪い師ならでは謀言じゃないのか?」という思いが、オレの口から白痴のような鸚鵡返しを紡がせる。


 「『百獣の王』は、あの人が育てた魔物だと……?」
 「左様。即ち『百獣の王』は、彼の子であり、『百の名の勇士』は、かの魔物の親でもある。」


 確認に肯定を重ねられて、いよいよオレの逃げ場はなくなった。確かにそれは、猛獣を友とするあの赤毛の聖騎士ならば、頷けなくもない話ではある。『百獣の王』と『百の名の勇士』は、種こそ別なれ、かつて家族のような間柄だった…… そんなことが、本当にありえるのか……?


 「彼を真に突き動かしているのは、『百獣の王』への復讐心などではない。言うなれば、父君としての責務なのだ。」


 だけど。……いや、だからこそ。
 だからこそ、納得の行く事情もある。
 だから、なのだ。だから彼は、全てを自分の責務と考えたのだ。
 衛士への哀悼も。魔獣への憎悪も。公国への献身も。全て。全て……!


 「私は、彼の持ち掛けた内談に応じ、そこで『百獣の王』の生誕に関する逸話を聞き知った。今から私は、君達にその全てを伝えよう。」


 そしてノワイトさんは訥々と語り始める。感情を一片たりとも交えない、記録者としての出力だった。


 かの赤毛の聖騎士が、『百獣の王』に初めて出会ったのは、今から数年前のことだという。とは言え、その時分にはあの強大な魔獣は、未だ母親の胎内から這い出たばかりの幼獣に過ぎず、自ら狩りを行い、獲物を捕らえる力さえ有していなかったのだが。
 『古跡ノ樹海』の上層に位置する第2層の樹林で、聖騎士は怪我を負った幼獣を発見する。そして、樹枝の上で幼獣の死を待つ猛禽の姿を見て取り、彼は放り置けば途絶えたハズのその命を救ってしまった。
 ……全ては、それが発端だったのだ。


 「その時、彼は天啓を得たという。これは、樹海と人間に間道を敷くための舗石なのだとな。」


 そう言えばあの人は、『百獣の王』は人間を樹海から放逐しようとする世界樹の意志だ、と訴えるミレッタの主張に反駁を唱えていた。今の話が確かならば、彼の言う通り、それは誤った認識だったのだ。
 なぜならば、樹海はむしろ幼獣の死をこそ願っていた。それがあるべき樹海の摂理なのだから。
 しかし、偶然にも『百獣の王』がこの世に息を繋いだのだのは、『百の名の勇士』がその樹海の意志に背いた結果だ。ならば『百獣の王』が、世界樹の積極的な意志の関与によって送り込まれた懲罰者であるワケがない。


 「しかし、なんと大胆な…… 一つ間違えれば、内乱罪で捕まっても言い訳できぬ暴挙でゴザルよ……!」
 「『ベオウルフ』は、猛獣との交誼を善くするギルドだ。なればこそ、樹海の魔物すら御せると自負も抱こう。彼が魔獣に魅せられたとしても不思議ではなかろうよ。」


 『百の名の勇士』は、樹海の奥で人知れず『百獣の王』の生育に没頭したのだという。まるで仔を為した雌獅子のような子煩悩さを発揮して、彼は日夜を問わず仁慈を魔獣に注ぎ込んだ。
 そんな生活がおよそ1年続いた。人間と魔獣の緊張を孕んだ交わりは、しばらくは順調に見えた。


 「だが、幾ら人間の薫陶を受けたとしても、『百獣の王』に息衝く魔物の血が薄まることなどありはしない。悲劇が訪れたのは、むしろ必然だったとも言えよう。」


 成獣へと姿を変貌させた魔獣の仔は、ある日、突如として『ベオウルフ』のメンバーであり、彼にとっては兄弟とも呼びえる仲間達に牙を剥いた。成熟し、強大な力を得た魔獣の前では、歴戦の『ベオウルフ』の精鋭達も柔弱な嬰児に過ぎず、彼らは居並ぶ端から魔獣の牙に捕われて惨死を遂げた。
 ……それが、世に畏怖される『百獣の王』の誕生の瞬間だった。


 「なんで、そんなことに……!」
 「……『子殺し』でござろうか?」
 「恐らくは。……狩りの為に群れを為す大型の肉食獣は、新たなリーダーとなるために旧来のボスの子息を余さず残さず噛み殺す。成熟した『百獣の王』にとって、『ベオウルフ』は自らの雄飛を阻む天蓋としか映らなかったのではないだろうか。」


 『百の名の勇士』は、そこで初めて自らの愚を悟った。新たな時代の掛け橋となるべく育て上げた最愛の寵児は、理性を嘲笑い、害意を撒き散らすだけの悪魔に過ぎなかったのだと。
 そして彼は、ここに至って『百獣の王』に立ち向かうことを決断したのだ。友の仇を討つために。過去の罪業を償うために。公国の脅威を取り除くために。


 「……あの人は、だから『百獣の王』を憎悪しているのか……!」
 「それは違う。彼は、今もなお『百獣の王』への信愛を捨てきれていない。だからこそ、彼は余人に頼ることなく、自ら子息に処断を与えようと決意したのだ。」
 「薫陶を与えた実の子供を、そう易々と憎めるものかと……! 余りに不憫な話にゴザル……」
 「それが『百の名の勇士』の救われぬ性質なのだ。彼は、冒険者としては、余りにも優しすぎた。」


 彼が胸中に秘めた熱い感情は、復讐の一言で纏められるほど容易なものではなかったのだ。未来を願った希望が、仲間を奪われた絶望が、実子を誅さねばならぬ非望が、複雑に混在しあっている。
 余りにも悲痛で、余りにも凄絶な、それは生きながらにして味わう地獄の責め苦のようだ。


 「そして『百獣の王』もまた、慈愛を以って自らに接した聖騎士を敬愛してもいる。だから『百獣の王』は、母親を見失った迷い子のように、第1層へと歩みを運んだのだ。」


 『百獣の王』の第1層への到達。それは人間の生地への侵犯を意図したものではなかったのだ。
 親を捜し求める道程で、彼は人間が常に地階から昇ってくることに気づいたのだろう。そして姿を消した親を探すために、彼は自ら下階に足を踏み出したのだ。


 「互いに情愛で結ばれていて! それで下せる決断が殺し合いだなんてっ! 何か他に道はなかったんですか!?」
 「人間が樹海の猛威に抗しうる力を持たぬ以上、樹海を人の手で操ろうとする行いは、天に唾する愚行に過ぎぬ。……聖騎士殿の理想は、些か早急に過ぎたのだ。」


 或いは、いつか人と樹海が共に手を携える時代が来るのだろうか。樹海に寄生するのではない、樹海と共存する日々が。
 樹頂の奈辺さえ知らないオレ達には、それは余りにも遠い世界の話のようにも思える。しかし、彼は一人その困難に挑戦し、そして、敗れたのだ。


 「しかし、それで本当に聖騎士殿は、『百獣の王』を斬り捨てられるのでゴザルか? どうも今の話を聞くようでは、聖騎士殿は情理に囚われ、剣先を鈍くするとしか……」
 「無理だろうよ。だから彼は、一度は討伐に失敗したのだ。さらに仲間を失って、な。」


 迷いで刃は毀れ落ち、予期せぬ破滅を呼び招く。それは、そういうことだったのか。
 彼は、守るべき仲間と、情愛を注いだ子息と、双方とを天秤に掛け、そしてどちらも選ぶことができなかった。結果として、彼は更なる責め苦を自らに課すことになり、そして今も胸奥を焼かれ、悲痛な叫び声をあげている。


 「それゆえに、彼は私にある仕事を依命したのだ。その代償として、私は彼に全てを明らかにするよう求めた。」
 「それはひょっとして、『百獣の王』を討伐するための方策でゴザルか?」
 「左様。呪言による心芯の束縛を彼は望んだのだよ。……実子すら躊躇なく斬り殺せるように、とな。」


 彼の抱いた凄絶な覚悟に、もはやオレは絶句するしかなかった。呪言の力を借りてまでして、彼は『百獣の王』との対決を望んだのだ。
 ……望んだ、だって? それは違う。呪言の力で本心を押し殺して、それで情愛を注いだ相手と殺しあう。そんなものを、自ら望んでいると言えるものか!
 ……しかし、彼はそれでも修羅の道を選んだんだ。ならばもう、彼の決意が揺らぐことはないだろう。ただ真っ直ぐに、非望の結末しか残されていない断崖の切先へと、彼は歩みを進めたのだ。


 フロースガルさん、あなたは……!




 「ベオ、アタシも戦うよ。」
 「いいのか、ミレッタ?」
 「……あの人にはベオを助けてもらったしね。その恩返しも、あるかな。」


 ミレッタが零したのは『激情の鹿王』との戦いのことだろう。確かにあの時、聖騎士とクロガネが来てくれなければ、或いはオレ達は『敵対者』の蹄に、全身の骨を踏み折られていたかもしれないのだ。
 それにしても、恩返し、か。
 ……果たして『百獣の王』との対決は、聖騎士への確かな返礼になるのだろうか。それがオレにはよくわからない。
 少し前のオレだったら、疑念の余地なくそう信じられたハズだ。だから、やはりノワイトさんのいうように、あれは力ある言葉の鎖、呪言だったんだろう。


 「……ミレッタ、ごめん。」
 「バーカ。こういう時はね、まずお礼を言うの。」
 「あ、ああ。 ……ありがとな、ミレッタ。」


 確かにミレッタの助力は感謝に絶えない。今に限った話じゃなく、いつもミレッタは、オレの我侭に付き合ってくれた。嫌な顔を見せることなく…… あ、いや、嫌な顔を存分に見せながら、それでも無理を承知して、傍に付添ってくれたのだ。
 なぜ、ミレッタはこうもオレに介添えしてくれるのだろうか。そう言えば、オレは今までその理由を尋ねたことがなかったような気がする。
 顔馴染の気軽さ? 成り行き任せ? ……いずれにしても、惰性で飛び込むには危険に過ぎる案件ばかりで、それは主たる動機にはなりえない。
 だとすると何か別の事情があるのだろうか。……彼らのような?
 そう、『ベオウルフ』の彼らのような、繋がりが。


 「簡易の結界を張った。『敵対者』でもなければクロガネの寝所を侵せまい。」


 縒り紡いだ生糸のような細糸を木々の合間に張り巡らして、呪い師は拍手を一つ打つ。幾何学的に張り巡らされた柔糸の結界は、樹海に棲む巨大な蜘蛛が築いた巣網のようにも見えた。
 本来的に呪言を伴わないこの手の仕掛けは、樹海の魔物に対して覿面な効力は望めない。元々は人間相手の呪法なのだとも彼は断ってはいた。とは言え、魔物の這い回る野辺に負傷したクロガネを放置するよりは、格段にマシな処置なのだろう。


 「じっとしてなさい、クロガネ。兄上の結界は、きっと貴方を守ってくれます。」


 ユーディットさんの忠告を獣が理解したのかどうか、イマイチ彼の表情からはそれが読み取れない。
 それでも痛み止めの金鍼が効いたのか、クロガネは一時に比べれば随分と穏和な表情を覗かせている。こちらの一挙手一投足に目を配るだけの余裕は生まれてきたようだった。
 願わくば、このまま快方に向かえばいいとは思う。だが、呪術医の彼女に言わせれば、それも死を目前に控えたがゆえの境地なのだと言う。
 拳に自然と力が篭る。クロガネをこのまま死なせたくはない。せめて存念の一つも叶えてやりたい。だから……


 「待っててくれ! きっとあの人に、フロースガルさんに会わせてやる! だから…… だから……!」
 「だから、絶対に生き延びるのよ。……いいわね?」


 声に詰まるオレの後を引き継いで、ミレッタが諭すように語りかける。クロガネはただ黙したまま身動ぎもせず、その黄玉のような瞳だけをじっとこちらに向けていた。
 赤毛の聖騎士の救出に真っ先に向かいたいのは、何よりもクロガネ自身のハズだ。そして、オレ達はその役目を彼から引き継いだんだ。
 ならば、その責務は果たさなければならない。彼の代わりに、全ての真実を両の眼に焼き付けなければならない。
 それが、彼らの背負った非業を少しでも癒すための助けになればと。オレは、そう思わざるを得なかった。




 「君は、戦うのかね。先程の話を聞いてなお。」


 音もなく近づいてきたノワイトさんが、声を潜めて問い掛ける。
 彼の警告通り、『百獣の王』に由来する真実は、オレにとって士気を損じる呪言以外の何物でもなかった。胸奥に盛る炎は、今は空虚な闇に削ぎ取られて掻き消えてしまったようにも感じられる。


 「戦いますよ、オレは。」


 だけどオレには迷いはなかった。彼の覚悟を目の当たりにして、今更怯懦を露わにもできようはずもない。むしろ勇なき躊躇は、彼の決意に対する冒涜であるとさえオレには思えた。


 「『子殺し』なんてあっちゃいけない。『百獣の王』が自ら背負った業を、彼が一人で背負い込む必要なんてどこにもないんだ。」
 「君は、彼の代わりに『百獣の王』を討ち果たそうというのか。」
 「ああ、それで彼の枷が僅かでも緩むのなら。」


 既に彼は、心に幾つもの傷を負っている。その上で、自ら腹に刃を突き立てるような自傷めいたやり方をして、それで彼が安らぎを得られるとは、オレには到底思えない。
 だからこそ、オレは彼の代わりに『百獣の王』を討つ。心優しい彼に、これ以上の罪業を負わせないためにも。
 恐らくそれは、彼の本意ではないかも知れない。だが、傷ついた彼を見過ごすことはオレにはできない。
 そう、勇名なる『百の名の勇士』の生還を、公国の誰もが願っている。例え彼が過ちを犯したのだとしても、きっと皆は理解してくれるハズだ。そして、彼が汚名を濯ぐ機会を得るためにも、オレは彼を助け出さなければならない。


 呪い師は、しばし沈黙していたが、何かを決断したかのように面を上げた。


 「かの聖騎士が負うべき強大な呪が、その行き先を失ったとして。中空に漂う呪がそれからどうなるか、君にはわかるかね?」
 「さぁ……? 力を失って、そのうち立ち消えてしまうんじゃないのか?」
 「違う。呪は祓儀でしか清められない。大気に澱んだ呪は新たな依代を必要とする。それは、即ち君のことだ。」
 「彼の代わりにオレが呪を背負うことになると?」
 「そうだ。覚悟しておくがいい。彼の呪は、重いぞ。」


 呪い師は、ただ腹を決めろ、とだけ言った。オレを引きとめようとも、覚悟を質そうともしなかった。
 奇妙な話かもしれないが、その言葉にオレは彼なりの信義の情を感じた気がした。彼はオレを信じてくれているのだと、そう思えた。
 ……まぁ、この状況下では、腹蔵はともかく、そう振舞うよりないだけなのかもしれないが。


 「子供を殺さなきゃならないって決断した親の気持ち、ノワイトさんは分かりますか?」
 「……さぁな。」
 「オレもですよ。でも、だから耐えられると思います。」


 オレは、自分の愚鈍さを疎ましくも思う。でも、それが時には精神を守る防壁にもなる。
 『百の名の勇士』が、『百獣の王』を討ち果たしたとして。
 『百獣の王』が、『百の名の勇士』の臓腑を食い千切ったとして。
 どちらの結果に及ぼうとも、彼らの未来は暗く険しい。不幸な影が射すだけだ。


 赤毛の聖騎士にとっては肉親にも等しい『百獣の王』は、しかし、オレにとっては樹頂への登頂を阻む障害でしかない。
 でも、だからオレは冷徹になれる。だからオレは残酷になれる。だからオレは猛悪にもなれる。
 ならばどちらが『百獣の王』を討つのに適任なのか。そんなことは、日の目を見るより明らかじゃあないか。
 彼の因業を打ち砕くために。そして、クロガネと彼を再会させるために。
 オレは戦う。『百獣の王』を、討つ。