▼世界樹の迷宮2・その10(14F)

 カースメーカー♂ ノワイトの記憶


 車椅子を押す少女の何気ない所作に、私はしばし目を奪われた。か細い手首に結ばれた絹の白帯は、流麗な指先の動作を伝って宙に柔らかな軌跡を描く。それは薫風に漂う燕のように、一片の迷いもなく、一点の綻びもない。若年にも関わらず、既に彼女は完成された型を身につけていた。
 少女の両の手首に捲きつけられた薄帯は、彼女が呪い師の階梯において修験の門を潜り抜けたばかりの入門者であることを示す徴証だ。修練を重ねるに従い、絹帯は革帯へと変わり、錫の輪を経て、最後は鉄の枷に至る。身体への束縛を強め、五感を研ぎ澄ますことで、呪い師はより力強い想念を喚起する。呪言に言霊を降ろすため、自ら責め苦を背負い込むのだ。
 そして、この院に属する呪い師の多くがそうであるように、少女は身体的な不具を備えてもいた。彼女の瞳にはあるべき光が灯っていなかったのだ。


 「ご苦労。エルシーや、お下がり。」


 暗緑色の液体を満たした白磁カップが卓上に並べられると、車椅子に身を埋めた部屋の主が少女にゆっくりと声をかける。その声はしわがれ、酷く罅割れてはいたが、声量は豊かで張りがあり、聞き取るには労苦を要しない。
 少女は主に向かって軽く一礼すると、踵を返して部屋を後にする。部屋には私と主の2人だけが残された。
 私は青臭い香気を昇らせるカップに目を落としながら、上目で対座する人物を覗き見る。部屋の四隅の燭光に照らされ、暗闇から茫洋と浮かび上がる黒衣の影は、節くれ立った五指で銀の小匙を摘み、添えられた木苺のジャムを、苔藻に染まった沼沢の如き液体に投じていた。水薬を精製する魔女のようだ、と私は思った。
 彼女、は、すなわちこの院を束ねる長老とでも呼ぶべき存在だ。誰もが一目で呪い師であることを得心し、それどころか幼い時分に寝物語に聞かされた死者の河の案内人ではないのかと疑念をも抱かせる、小柄で痩せぎすな、鷲鼻に痘痕を浮かべた老婆である。
 彼女は長きに渡り、院において呪い師を束ね、外部との折衝を受け持つ立場にあった。公国において、呪い師などという日陰者が、住民からの粗暴な排斥の対象から免れ、唾を吐きかけられるだけで済んでいるのは、公宮における彼女の非公式な立場が多少なりとも影響している。人伝てによると、この老婆の『物見』は、小胆な政治家どもに酷く受けがいいそうだ。


 「あの娘は、一体?」


 私が問い掛けると、老婆は瞳に諧謔の光を浮かべて口元の皺を深くする。


 「東方の名士の娘だとさ。成り上がりのお前と違って毛並がいい。」
 「どこから誘かしてきた?」
 「失敬な男だね。あれは雨宿りに軒下に飛び込んできた小雀さ。焼いて食うほど落ちぶれちゃいない。」


 なるほど、富裕階級の出であれば、先程の洗練された所作にも納得が行く。どのような事情からこのような北端の果てまで逃げ込んできたのかは知る由もないが、潮の満ちる浅瀬のように冒険者流入が相次ぐこのハイ・ラガード公国は、同時に脛に傷持つ者が身を隠すにも都合のいい雑踏なのだろう。
 巷間では『呪術院』と呼ばれるこの町外れの一角は、一般的な宗教施設が地域の聖域としての機能を果たすのと同様に、一種の貧民救済の役割を自ら担っている。院は、戦争や災害によって捨てられた幼少年を収容し、糧を得るための呪術の修得を奨励していた。
 とは言え、それは何も邪な思惑や意図の産物ではなく、老婆に言わせれば「リュートが弾ければ、そっちを教えただろうがね」という程度のものだ。芸は身を助く。それと同軸の発想なのだろう。
 ゆえに、老婆が年端も行かない幼子に教え込むのは、その多くが一般的な祈祷文の類であって、怨敵に仇為し、死に至らしめるための呪法などではない。毒虫だけを与えて肥え太らせた鶏の首を切り落とし、その血で石床に印を描き、厳かに呪詛を唱えるような典型的かつ古典的な儀式など、今日では僻陋の悪習としてしか存在しない。
 そもそも呪術自体、その本性は巷で囁かれているような妖しげな邪術などではない。錬金術の本性が破壊の術ではないのと同様に、呪術の本性は、穢れと清めを扱うための手続きに過ぎない。
 辺境の寒村においては村付属の聖職者などいる方が稀で、そうした手合いにとっては、鎮魂の儀に通じた流れの呪い師は、しばし重宝な存在だ。呪い師は祈祷師として共同体の意を酌んで形ばかりの礼式を執り行い、そして黒パンとワインを謝礼に受け取る。
 尤も、共同体の流儀を余りに粗雑に扱うようだと、今度は投石と共に村を放逐されかねないので注意が必要だ。僻村の人々は、子供のように信心深く、同時に子供のように迷信深い。
 つまり、私達呪い師は、日頃能力者が吹聴するような魂の知覚や、その操作とは全く無縁の存在なのだ。私達は、魂に直接関与するのではなく、魂が存在すると信じる人々の心理に関与する。
 彼らの常識は、しばし物理的な整合性をも凌駕する。想像力よ、偉大なるかな。ゆえに私達はその常識を少しばかり弄ってやることで、導き出される答えを恣意的に操作する。それは時に物理的な影響を及ぼすことさえある。
 その技術を攻撃的に応用するのが、私達呪い師が日頃用いる『呪言』ではあるのだが、さて、白の薄帯を身につけていたところをみると、あの少女もそんな力を渇望しているのだろうか。


 「なんならお前がひきとるかい? あれを不憫に思うならね。」
 「下働きなら足りている。無用な世話だ。」


 何もこの老婆は少女の身の上を案じているのではなく、ベッカー家が窮状にあることを承知の上で、小娘一人養えない貴族だと嘲弄しているのだ。まったく、年の割には児戯めいた真似をする。
 まぁ、敢えて弁明を試みるなら、我があばら家でも下男の一人くらいは抱えている。尤も、その男は自らを武士道と称しているのだが……


 「なんだい、吝嗇な男だね。偶然見つけた林檎の木を独り占めにして、下に集まる連中には木靴を投げつけようって言うのかい。どうも私は博愛精神のなんたるかをお前に教え損ねたようだね。」
 「どれも未熟な生り物ばかりだ。望むなら幾らでもくれてやるさ。取り損なえば頭蓋が砕けるがな。」
 「ほっほ、あてが外れたね、御曹司。名家の主に取り入ったはいいが、そいつは博打で身代をパァにしちまった。金庫を開けてみても、そこには請求書の山、山、山…… 砂金の一粒も残っちゃあいない有様だ。」
 「それで命を繋げられたのならば安い代償だ。老い先短い老人とは違う。」
 「これはまた随分と御身を高く見積もったもんだ。巡礼なんてものは、命を粗末にしたがる輩の愚行だと私は思っていたんだがねぇ。」
 「それは、日銭を稼ぐための胡乱な宝捜しに興じている連中の話だろう。」


 しかし、私は彼らとは違う。彼らの生き方は、グラスの底に残ったワインに真水を注ぎ足したような薄っぺらいだけの代物だ。
 そんな現状を彼らは自覚し、自嘲し、自暴する。だからこそ彼らは、自らの身命を金貨の数枚と引き換えに徒に擲ってしまうのだ。
 だが、私は必ずや樹頂を極める。樹上の玉座に沈む『諸王の聖杯』をこの手に掲げ、生と死の牢獄を脱し、世界の法理を我が物とする。それだけの報果を見据えているからこそ、私は唯一無二の生命を探索に投じられるのだ。
 だが、私が踏破を目指す世界樹の迷宮には、未だなお未知なる脅威が潜んでいる。私はこの困難極まりない試練を成功に導くために、樹海の闇に光を当て、障害となる因子の全てを知悉しなければならない。


 例えば、そう。『世界樹の使い』も、その一つだ。


 「私が院まで出向いたのは、何も昔話に興じるためではない。」
 「じゃあ何かい。閑暇にたゆたうこの老人に、樹海巡りの冒険譚でも聞かせてくれるのかね。」
 「敬老精神はとうに使い果たした。早急に報告を聞かせて貰おう。」


 『百獣の王』の討伐を果たして樹海から帰還を果たした後、私は樹海で見つけたとある品物を、調査のために院に送付した。そして今日、私は院からの回答を受け取るためだけに、久方ぶりに古巣の門を潜ったのだ。
 老婆は表情を正すと、懐から一枚の羽根を取り出して卓上に置く。それは冒険者が獣の皮を剥ぐために用いる大振りのナイフにも似た、巨大な風切り羽だった。


 「まるで雷霆を孕む群雲の如き色彩じゃないか。極彩色の『サイミンフクロウ』などとはまるで趣が異なる。」
 「ならば、やはり……」
 「お前の見立て通りだ。これは御使い様のものだよ。間違いない。」


 やはり、『世界樹の使い』……!
 心臓が激しく脈打ち、胸郭に熱い波涛が満ちる。呼気に絡みつく融熱は、時折病魔が運んでくるそれにも酷似していたが、私の全身を打ち震わせているのは粘りつくような怖気などではなく、奔るばかりの熱い歓喜だった。
 哄笑を抑えるために私は多大な努力を要した。なにせ、声を上げて笑うことさえ不慣れなのだから、その抑え方など知りようはずもない。私は全身を駆け巡る感情の波を御するために、無駄だと知りながら呪言による自己暗示を試みさえした。


 『世界樹の使い』。簡潔に言えば、樹海で生活を営む人型の異種族である。
 公国において、彼ら『世界樹の使い』の存在を知る者は少ない。院と公宮の一部の人間だけが、その存在を公的に認め、彼らの正体と背景を探るために少なからぬ労力を注いでいる。
 『世界樹の使い』は、私達と同じ二足歩行の人型の生物で、人間と同程度の知能と文明を備えてはいるが、鳥類との混血のような独特の容姿こそが私達とは大きく異なる。彼らは背中に一対の巨大な羽翼を備え、手足は細く、鉤爪を備えている。
 それゆえに彼らは翼人とも呼ばれる。両の翼で風を起こし、宙を自由に舞い飛ぶとの話が確かならば、骨の構造等もより鳥類に近しい生物なのだろう。
 明らかに人間とは異なる進化を経たこの生体に対して、その出自に関する見解はまるで統一が為されていない。曰く樹海の生態に適応した新種の魔物であるとか。曰く、樹海に息絶えた冒険者の成れの果てであるとか。曰く、世界樹の怒りに触れた背教者の子孫であるとか。
 国内外に名を馳せる生物学の権威でさえ、『世界樹の使い』の生態に話題が及ぶと、場末の酒場で囁かれる樹海の怪談染みた見解で口を濁すしかないのだから、まったく彼らの姿は昏く、樹海の闇は深い。公国は彼らの生活、文化、歴史、宗教、思想に至るまで無知も同然なのだ。


 院に関して言えば、院は彼ら翼人と細々とした交流の歴史を持っている。院は長年に渡り、彼らに供物を捧げることで祭事に用いる香木を頂いてきたのだ。老婆が彼らを『御使い様』と呼ぶのもそうした事情による。
 とは言え、翼人については、森に居を構えて時たま獲物を売りに来る猟師のようにしか、院も捉えていないのだ。双方を益する物々交換も、彼らの集団の総意というよりは、異端の個人の気紛れに過ぎないと考えるのが妥当だ。
 彼ら翼人はむしろ孤立を好み、人間との交わりを嫌い、同族のみの閉じられた社会を構築しているようにも見える。地上に人間がいることを知りながら、彼らは地階に足を踏み出すこともなく、長きに渡って樹海のみを自らの住処と定めて動こうとしない。
 ならば人間の樹海への進出を、彼らは一体どのような表情で見守っているのだろうか。樹海の踏破を目指すのならば、私は彼らの胸底を覗かなければならない。


 「それにしても、一体こいつをお前はどこで見つけたんだい? 御使い様は人前に姿を現すことを殊のほか嫌う。会い見えるだけでも足を棒にして樹海を探し回らねばならぬというのに。」
 「『古跡ノ樹海』の最奥。『百獣の王』の巣の近辺だ。」


 私は老婆の求めに従って、御使いの羽根を手に入れた経緯を伝えることにした。情報を交換することで推論を固められる期待もあったし、何よりも企図した成果が得られたことで、私は幾分か鷹揚になってもいた。
 まず、樹海で行方を晦ました聖騎士の件。私達は多くの冒険者を動員して組織的な捜索を行ったが、結局、彼の安否どころか、消息を示唆するものさえ見つけることができなかった。
 次に聖騎士の同輩である漆黒の狼の件。魔獣との死戦を制した私達が彼の待つ窪みに立ち戻ると、そこには狼の姿はなく、ただ、彼の首元を飾っていた革の首輪だけが残されていた。


 「翼人の羽根は、そこに残されていた。結界の蜘蛛糸に絡まっていたのだ。」
 「では、お前は直接に御使い様を目にしたのではないのか。」


 敬意の欠片も篭められていない「翼人」との呼び名に、老婆が眉根を険しくする。声も幾分か詰問するような口調だった。


 「そうだ。結界は破られていたが、争ったような形跡はなかった。一見すれば、狼は自らの意思で窪地を離れたようにも見える。」
 「おかしな物言いをする。私の耳には、御使い様が狼を連れ去った、と言ってるように聞こえるんだがね。」
 「物分りが早くて助かる。」
 「……正気かね。」
 「頗る平静だ。……なぜ翼人はそんなことをしたのだと思う?」
 「フン、だったら慈悲深くも樹海で息絶えた獣を葬ってやったんだろうさ。お優しいことだ。」
 「あの誇り高い漆黒の狼が、望んで自らの屍を野晒しにするものか。死期を悟れば、その時は這ってでも窪地を抜け出すハズだ。」


 結界は内からではなく外から破られていた。それは即ち、何者かが結界を破って内部に侵入し、瀕死のクロガネを連れ去ったということだ。
 老婆は親指と人差し指で風切り羽の根本を摘み、断続的にクルクルと回している。老婆の視線は、しばし灰墨色の羽根の突端に注がれていたが、やがて飽いたのかその手を休めると、こちらに視線を戻して再び疑問を口にした。


 「それで、死に掛けの犬ころを引き摺り回して一体どんな益があるんだい。肉を削いで煮炊きしようってんなら、そりゃ野蛮人の風習だね。」


 状況証拠からすれば、クロガネを連れ去った犯人は『世界樹の使い』ではないかという仮定が成り立つ。残された翼人の羽根は極めて珍奇な代物で、有力な物証であることは間違いない。
 しかし、翼人がクロガネを連れ去ったのだとすると、その理由は一体奈辺にあるのか。その動機について、私はこの老婆を納得させられるだけの論拠を持ち合わせていなかった。
 だが、結界を紡ぐ撚糸に絡まった一片の風切り羽。それが私に光明を齎したのだ。
 樹上には私の求める全てがある。『天空の城』も、永遠の生命を約束する『諸王の聖杯』さえも――


 「”天空の城……、そこには神が住む。神は勇者を求め、力ある冒険者は天の城へと運ばれる……”」


 古めかしい伝承を口にする私を阻む声はない。老婆はゆっくりと眦を開き、そして独語するように低く呟く。


 「御使い様は、神命により狼を樹上に招いた。お前は、そう言うのか……?」
 「『ベオウルフ』の漆黒の獣は、まさに勇者だった。異論はないだろう?」


 反論の声は上がらなかった。しかし、同時に賛意の声が紡がれることもなかった。老婆はこちらを固く見据え、何事かを思案しているようだった。


 「……しかし、それも偶然の一致に過ぎん。仮説の裏づけに俗説を宛がったとして、それを論拠と呼ぶには至るまいよ。」
 「勘違いされては困る。私は伝承が事実か否かを試したのだ。そして、実験は成功した。」
 「実験、だと……? お前は一体何を……?」


 天空の城に玉座を構える神が、地上の勇者を御許に呼び寄せる。その伝承が事実であることを確かめるために、私は『ベオウルフ』の彼らを利用したのだ。
 私は、ミッションに参加することで彼らの信用を得た。赤毛の聖騎士の奇妙な申し出――自らの心性を呪縛して欲しいとの内容――も、私は快く引き受けた。
 こうして聖騎士の信頼を得て、計画のための下準備は整ったが、首尾良く彼らが魔獣と邂逅を遂げ、そして敗北を喫したとして、そこで一つの問題が生じる。彼らの顛末を見届けるためには、自らが樹海の深奥へと赴かなければならないのだ。
 これは些か困難の伴う難題だった。できれば、『バラック』の連中を巻き込み、可能な限り危険性を回避したいと私は考えた。
 ここで同伴する剣士の少年が、『百の名の勇士』への熱烈な敬意を示したのは、私にとって望外の幸運だった。彼は率先して聖騎士の救助を主張し、私達は『ベオウルフ』を追って樹海の奥へと踏み入ったのだ。
 剣士の少年は、ひたむきに情熱を傾けて致命傷を負った狼を発見した。そして、私はかの漆黒の狼に最後の仕掛けを施し、その場を立ち去ったのだ。


 考える時間を十分にくれてやったにも関わらず、老婆の表情は疑念に醜く歪んだままだ。徒に重ねた歳月が脳細胞さえも枯死させたのか。私は腹の奥底で笑いを零す。


 「老いぼれめ、香に燻されて鼻まで潰したか。これで耄碌を自覚したのなら、後進に役務を預け、御神木でも眺めて余生を楽しむがよかろうよ。」


 老婆は愕然とした表情で手元に揺れる羽根を見つめ、そして面を伏せて臭気を嗅ぎ取る。次の瞬間、老婆は酷く咳き込むと、慌てて顔を逸らしながら口角泡を飛ばす勢いで口を開く。


 「食虫花の腐臭に香の菓の酸味……! 貴様、結界に瘴気を満たしたのか!」
 「『ラフレシア』の花弁と樹海の果実から練り上げた『毒の香』だ。吸い込むと肺が腐るぞ。」


 羽毛に纏わりついた残り香程度では毒性も塵芥に過ぎないが、立ち上る香気をまともに吸い込めば屈強な樹海の猛獣であろうと確実に心肺を病んで損じる。逃げ出そうとしても下腹に痛みが走り、立ち上がることさえ覚束なくなるのだ。
 それだけの毒気を備えた香を、結界の内で焚けばどうなるか? 結果は明白だ。


 「お前は狼を守ろうとしたのではない……! 逃がすまいとしたのだな……!?」
 「翼人を誘き出すための大事な餌だ。姿を晦まされたのでは困る。」


 翼人の来訪を確信するためにも、クロガネには結界内に留まって貰う必要があった。彼の余力を削ぎ、そして翼人を燻り出すために、私は結界に『毒の香』を焚き染めたのだ。
 当然ながら翼人がクロガネの回収に現れない公算もあるにはあった。その時は文字通りの『犬死に』だが、まぁ、それも止むを得まい。放り置いたとしてもいずれは尽きた命だ。
 しかし、結果として翼人はその羽根を結界に残し、私は伝承が真実であることを確信した。まったく『ベオウルフ』の黒狼の功績は計り知れない価値がある。心より御礼を申し上げよう。
 さらに推測を進めれば、瀕死の状態にあった獣を翼人が連れ去ったその理由についても酷く興味の沸くところだ。余命幾許もない手負いの獣をわざわざ翼人が選んだのは、彼らの主であろう『天空の城』の神が、彼を蘇生させる手段を有しているためではなかろうか。即ち『諸王の聖杯』が――





 「私は、お前を見誤っていたようだ。」


 やがて落ち着きを取り戻した老婆は、相変わらずの濁声で呪詛の篭った呟きを漏らす。


 「樹海への巡礼を始め、お前は呪から開放されたのだと思っていた。しかし、お前は未だ呪に囚われている。生への渇望に直走るお前は……」
 「私に言わせれば。」


 私は老婆の言葉を遮る。偏狂な老人の繰言は、しばし没個性的で冗長に過ぎる。それで当人は至言を語っていると思い込んでいるのだからなお厄介だ。


 「弱肉強食こそが世界樹の倣いなのだ。ゆえに私はその流儀を尊重し、当為を全うしただけに過ぎない。」
 「『ベオウルフ』の聖騎士を喰らい、狼を喰らい、次は誰の腸を喰らう気だ。仲間を喰らい、家族を喰らい、最後はお前が喰らわれるのか。」
 「私には仲間も家族もいない。幾つかの手駒を揃えはしたが、それだけだ。」
 「愚かな男だ。孤独のままに樹海を踏破しようなどと驕慢に過ぎる。鎖に繋がれ、自ら階上へと踏み出すことさえ覚束ない呪い師風情が、独力で一体何を為せるというのだ。」
 「確かに今は無理だ。未だ私は呪言を極めていない。だが、そう長くはかからないだろう。道筋は既に見えた。」


 老婆の目が見開いた。濁ったガラス球のような瞳を露わにして、老婆は声を高くする。


 「……まさか、お前は交感術まで用いるつもりか!」
 「例えこの身が砕けようとも、大望の前に躊躇は無意味だ。身命を賭ける、とはそういうことだよ。」


 老婆は絶句して面を伏せた。もはや諫言を尽くしたといった風情だった。
 私も説教染みた小言には飽いていたし、部屋を辞するには頃合に思えた。必要な手がかりは全てが出揃い、これ以上の長居も必要ない。
 私は椅子から身を起こすと、黒檀の杖を支えに空いた手で上衣を正す。老婆は私を見据え、何をか言わんと口を開閉したが、それが明瞭な声音を伴って空気を震わすことはなかった。




 「院主様、お時間でございます。」


 控えめなノックのあとに顔を覗かせたのは、先程の盲目の少女だった。老婆がゆるゆると諾意を返すと、彼女は重心を宙に固定したかのような淀みのない動作で部屋に歩み入り、車椅子へと手を掛ける。


 「相変わらず多忙なようだな。」
 「……魔獣は息絶えたが、それで魔獣に殺された者が生き返るワケではない。遺族の悲念を安んじねば、樹海に漂う御霊に地上への未練が残る。」


 大地に還れぬ魂は、樹海を彷徨い、鬼と化す。鬼気昂じれば、人は樹海に誑かされ、命を落としてまた鬼となる。
 それは死者と生者の織り成す無限の循環だ。そうして世界樹は贄を食み、呪をより強固なものにする。


 そう、『世界呪』は、続くのだ。呪の根源が白日の元に晒されるその日まで。


 「此度の慰霊祭は公宮の主催だ。魔獣の暴威は角鹿どもにまで及んだからな。」
 「衛士の損耗は甚大だと聞く。按擦大臣は弔慰金をどう捻り出すかで今頃頭を抱えているだろうよ。」


 公宮の慰霊は、あくまで民兵である衛士の追悼のためにのみ行われるものだ。そうして公宮は人心の安定を図り、樹海の踏破に臨む姿勢を改めて強調する。
 しかし、彼らの視界に冒険者の墓碑名はない。招きもせずにやってきた漂泊者が、名も知られずに死んでいった。それだけのことに注意を払う暇など誰にもない。羽蟻と地虫の生存競争に誰もが興味を示さないのと同じ理由だ。
 それが気楽だ、と嘯く冒険者も多い。だが、大望を胸に抱いて樹海へと旅立つ彼らに一片の自己顕示欲もないと考えるのは、些か夢想と美化に過ぎるだろう。


 では、私は? 私はどうだろうか?
 愛する者の手に抱かれて今際の際を迎えたいのか。聖歌隊の織り成す鎮魂歌の響きを棺の中で聞きたいのか。


 どちらも御免被る。……私は、私は死にたくない。




 「では、院主様、お元気で。次にお会いする際には『諸王の聖杯』を持参いたしましょう。」


 車椅子を押されて退室する老婆の背に向けて、私は別離の口上を述べる。上っ面だけの敬意を被せた挨拶に、老婆は軽く手を上げてぞんざいに応じた。やれやれ、院の棟梁ともあろう者がそれでは、目下の者に示しがつかぬだろう。
 しかし、次に会うとき、か。果たしてそれまであの老人の余命が保つのかという疑問については、些か熟考を要する命題と言える。
 不敬な仮定を脳内に巡らせて、しばし愉悦に浸った後、しかし、私はあることに気づいて舌打ちをした。……いや、猶予がないのは私も同じなのだ。






 最初にちょっと。表題に14Fとありますが、これは何も一気に第2層を飛ばしたのではなく、ネタバレ強度として14Fに到達しないと出てこない情報を取り扱ってますよ、という意味です。まぁ、この時期になってネタバレも何もないような気もしますけども。
 今後の進行は、こんな感じで、通常のプレイなら先の階層で手に入るような情報も織り交ぜつつ、本来の展開を換骨奪胎して進めていきたいと思っています。上の層に登って、下の層に戻って、また上の層に登るってんじゃ面倒ですしね。
 なので、以後は基本的には第2層の話が続くと思います。これまたネタバレ基準なので、表記は進行中の階と必ずしも一致しないワケですが。


 さて、呪術院です。ゲームの中では特定のクエストの際にチラッと名前だけが出てきただけに過ぎないこの呪術院ですが、怪しげな響きといい、曖昧な立ち位置も含めてロマンと妄想に溢れるタームです。
 ゲーム的には樹海に潜む異種の存在を仄めかすおいしい役どころなんですが、その存在を知らずにクリアしてしまった、という人も少なくないのではと思います。自分も当該のクエストを受ける前に第4層に行っちゃったので、その辺を味わいきれなかった部分もあるんですけども。
 とは言え、深読みをすればするほど面白さが滲み出てくるのがこの呪術院で、扱うにしても調理の幅に自由度があり、大変面白い素材だと思ってます。ゲーム内の記述が控えめなので、その分好きなように妄想できるってのが実に大きいですね。
 例えば、今作は前作と異なり、回復用のアイテムは薬泉院ではなく、交易店で購入する仕組みになっています。これはゲーム中でNPCが語っている通り、薬泉院で調合した薬を交易店の軒先で販売するシステムで、製造と販売を分業しているワケですが、同じ関係が呪術院と交易店にもあると考えてもこれは牽強付会に過ぎないと思うのです。
 でまぁ、今回新出の『獣避けの鈴』ですとかね、『毒の香』ですとかね、そういう細々としたアイテムを呪術院で製造して卸しているんだとしたら、これは面白い光景が浮ぶなと自分は思うんです。
 内職で鈴の実をくり抜いているカースメーカーとかね。シュールだわー。


 そう言えば、自分は世界樹に欲しいなぁと思っているものを優先的に書き足していく傾向があるようです。世界樹には老婆キャラが足りない!