▼采配のゆくえのエンディングについて

 采配のゆくえのエンディングについて、個人的に思ったことをつらつらと。致命的なまでにネタバレなので、未プレイ、或いはプレイ中の方は見ないほうがいいと思います。
 エンディングまで見終わって、なんだかこの終わり方は納得できないなぁ、と思った方にとって、何かの一助になるかもしれません。あ、逆にイライラするかも。



 webで采配のゆくえの感想なんかを見てると、終盤まではよかったけれど、エンディングには納得行かないという意見が結構多かったりします。まぁ、あれがエンターティメント的に正しい爽快な終わり方かと言うと、ちょっと捻り過ぎてるかな、とは自分も思います。でも、どちらかと言えば、自分はあの結末が腑に落ちた方でした。ああ、こういう終わり方なんだなぁっていう。
 で、エンディングに対する不満の最たるものは、豊臣家を守ると誓った三成が、自分は隠棲して史実と同じ豊臣家滅亡の結末を看過している。これは無責任じゃないか、というものです。
 まぁ、それはそうなのかもなぁ、と思うんですが、果たして三成が戦う理由は、豊臣家の存続にあったのか否か。そこに開発側とユーザの意図のズレがあると自分は思うんですよね。


 ゲームの開始時点では、確かに三成の目的は豊臣家の存続にあったと思います。淀君からの依頼を受けて、家康を打倒し、豊臣家主導の政体を護持する。そういう役割を三成が自らに課していたことはゲーム中からも読み取れます。
 ただ、もっと大きな視点で見れば、三成の理想はその旗印に描かれている文言、即ち「大一大万大吉」の実現にあったと思うんですよね。誰もが幸せに暮らせる社会を築くこと。豊臣家の存続と人々の幸福はイコールであったからこそ、三成は豊臣家の存続を願っていたワケです。
 ところが、ゲーム内の展開、徳川家康との対話や対決を経て、三成は豊臣家の繁栄が必ずしも人々の幸福に寄与しないことを悟るワケです。だからこそ、最終的に三成は豊臣家の存続に執着しなかった。豊臣家が続くか滅びるかを、腹蔵なく語り合った好敵手の手に委ねた、と自分は思うのです。
 この物語は、関ケ原の合戦を通じた石田三成の成長物語です。結果として三成はその軸足を幾許か入れ替えましたが、「大一大万大吉」の思想自体は物語全体を通してブレがありません。徳川主導の時代が「大一大万大吉」の思想と対立するものではないと考えたからこそ、三成は戦後の手出しをしなかった。そう考えるのが妥当なんじゃないかなと自分は考えます。
 まぁ、三成自身にも割り切れない気持ちは多分にあるんでしょうけどね。でもまぁ、その辺りは三成自身が語り手ではないので傍目からはよくわかりません。その辺り、直接に三成の葛藤を描写していない点がユーザの混乱を招く原因なのかな、と自分は思いました。


 あと、もう一点。仮に史実通りに豊臣家が滅びるとしても、それを描写する必要ないじゃないか、という話もあります。「関ケ原の合戦に勝ちました。めでたしめでたし」で、終わらないのは、確かにプレイヤーからすると自分の努力を否定されているような気分になるのかもしれません。
 ただ、自分としては、豊臣家の滅亡はこの物語で書き切らなければならないファクターだと思っています。なぜかと言えば、豊臣家の滅亡こそがこの物語のテーマを完遂する鍵になっているからです。
 この物語のテーマは、ズバリ「戦国時代の悲哀」にあると自分は考えます。考えてみれば、関ケ原の合戦に参加した諸将の多くは、戦国時代の象徴的存在である豊臣秀吉の、ほんの気紛れとも思える情動に人生を左右されて、望まぬ戦地に足を運んだのだとも言えます。
 福島正則宇喜多秀家小早川秀秋…… あとは石田三成自身もそうですよね。もっと言えば、豊臣家で起きた武断派と文治派の抗争自体も、その原因はと言えば秀吉のバランス感覚の欠如に求められるワケで、「諸悪の根源は豊臣秀吉!」と言い切っても差し支えないほどに、この物語における秀吉の影響力は絶大だったワケです。
 その辺りが、先程述べた「戦国時代の悲哀」です。たった一人の人間の小さな気紛れが、多くの人々を幸福に導いたり、或いは不幸にする。極めてミクロな取捨選択が、極めてマクロな影響を及ぼす時代の無慈悲さを、この物語は浮き彫りにしようとしているんじゃないかなと。
 それは逆もまた然りで、大局のために一個人の感情を押し殺さなければならない、というのも同じ「戦国時代の悲哀」ですよね。淀君細川ガラシャは、まさにその典型です。


 とは言え、だからと言って全ての原因を秀吉に押し付けて、それで話が解決するかといったら、それもまたお門違いで、結局は秀吉自身も戦国時代の雄として当然為すべき選択を果たし続けただけに過ぎないんですよね。そして、そんな歪な時代、寒々しい時代が、果たして三成の掲げる「大一大万大吉」の思想に合致するか、と言えば、それは否ではないかなと。
 多勢の為に個人の幸せを押し殺すような時代は終わらなければならない。だからこそ、豊臣家の滅亡と共に「戦国時代の終焉」が描かれて、初めて物語は完結するんです。
 淀君自身は、豊臣秀吉から「戦国時代の象徴」という役割を継承してしまいました。この事情もまた、なんというか、業が深いんですけども。
 そして、だからこそ、テーマの遂行上、彼女は死ななければならなかったのです。この際、淀君が改心したかしないか、というのは、どちらに捉えても大差ないとは思います。とは言え、彼女が死ななければ戦国時代は終わらない。だからこそ淀君の死、そして豊臣政権の滅亡を以って、采配のゆくえの物語は幕を下ろす形になっているのです。



 陰鬱な演出と相俟って豊臣家の滅亡は一見悲劇的なエンディングにも見えます。しかし、そうしたテーマ性を考慮すると、むしろこのエンディングは、悲劇と流血に彩られた戦国の世が終わり、新しい平和な時代がこれから訪れる、という未来を示唆した終幕なんですね。
 だからこそ、自分はこの終わり方に興奮しました。戦国時代を舞台に取り上げながら、戦国時代を否定して終わるというアクロバチックをやってのけた点に構成の力を感じたんですね。




 まぁ、この解釈が果たして正しいのかどうか、正直なところはよくわかりません。テーマ性なんて言っても、それは自分が勝手にそう感じただけの話でしかないですしね。作中での押し出しも足りなかったように思いますし、ユーザの多くがそう捉えなかった点から見ても、メジャーな考え方ではないのかなとも思います。
 でもまぁ、レビューでシナリオを評価点に挙げたのであれば、エンディングをどう捉えているかは触れなければいけないだろうなぁと思ったんですよね。まぁ、レビューはネタバレ厳禁なので、今回はこうして別に記事を書いたんですけども。
 あと、自分は、歴史の流れには一個人の努力では逆らえないよ、という視点からエンディングを評価しているのではない、ということは言っておきたいと思います。むしろ光成が家康に同調、というか、視点をあわせるエンディングとかすげぇifですしね。年表だけを追えば、史実の踏襲ではあるんですが、意味合いは大きく違うなと。そんな感じです。